禍事〜まがごと〜 




ACT8(十七話対応)

 今日でもう、一週間か。
 早朝。護国寺の回廊の一角で、桐野藍はほかの雲水たちとともに床を掃除していた。
 まったく、いつまでこんなことをしなくてはならないんだろう。だれにも邪魔されずに「水鏡」の修業ができると思って、ここまで来たというのに。
 「水鏡」になる。そして、自分も特務三課に入る。
 それが、藍がまる一日考えた末に出した結論だった。
 むろん、事が容易でないことはわかっている。自分は参謀室付きの書記官で、御門の「手」だ。失態を犯したのでもない限り、原則として辞任はできない。役目を放棄することは、王に対する叛意ありと疑われる危険すらあった。しかし。
 搦め手が駄目なら、正攻法でいくしかない。
『“昏”を都に配すにあたり、新人と官吏経験のない者だけではなにかと支障が起こりましょう。どうか、わたくしを三課にお加えくださいませ』
 ひとつ間違えば首が飛ぶ。その覚悟で、藍は御門に上奏した。
 自分はかつて、御影本部への配属を固辞して「手」となった。今度はその逆だ。「昏」の監視という大義名分はあっても、御門が二度も臣下の勝手を許すだろうか。分の悪い賭けではあったが、藍にはもうほかに手立てはなかった。
 社銀生。あの男の側で、公の立場で「昏」を監視し、碧を守る。
 幸い、銀生には「対」がいない。あの男の「水鏡」になれば、来期発足予定の特務三課に配属されるはずだ。
 御門はしばらく無言だった。窓を揺らす風音だけが妙に大きく聞こえる。頭を垂れたまま待つ身には、その時間はひどく長く感じられた。
『それも、よいか』
 ぼそりと、御門。
 その一言で、藍の三課異動は内定した。が、表向きは事務畑一筋だった藍である。いきなり「水鏡」に任命するわけにもいかず、ひと月後に適正検査と実技試験を行なうことに決まった。当然ながら、それはあくまでも機密事項である。藍はひそかに術の訓練を行なうため、参謀室に休職届を出して護国寺にやってきたのだ。
 護国寺は和の国の北部にある戒律の厳しい寺で、代々の和王の幼少期の教育を任されている。現門主、慧林上人は九代目御門の師であった。
「此度の次第は、九代さまから伺っている」
 到着した日、藍を出迎えたのは桐野の分家筋にあたる桐野篝だった。彼は前の御影長の「対」を務めた水鏡で、御影本部を辞してから護国寺に籠もり、求道の日々を送っていた。
「だが、おまえは客ではない。明朝より寺の仕事もやってもらう」
 重々しく、言い渡す。もとより、上げ膳据え膳を期待していたわけではない。藍はそれを承諾したが、まさかこんなことになろうとは。
 寺の仕事。それはつまり、雲水たちの修業そのものであった。
 夜明け前の座禅に始まり、掃除、読経、写経、托鉢、食事の支度に畑仕事、老師の世話や賓客の接待。それぞれに複雑な作法があり、いわゆるノルマのようなものもある。
 初日は作法を覚えるだけで終わってしまい、二日目もそれを踏襲するのに追われ、「水鏡」の訓練どころか、まともに休憩をとる時間もなかった。三日目以降はなんとか日課をこなせるようになったものの、とても術の練習をする余裕などない。そして、七日。
 藍は今日も、朝の掃除に追われていた。
 掃除や洗濯や炊事といった家事は、藍とてひと通りはできる。ものごころついたころから、桐野の家には篤志家の父があちこちから引き取ってきた子供たちが何人もいて、皆それぞれ自分にできる家事を分担して生活していた。母も実子である藍を特別扱いすることなく、ほかの子供たちと同じくいろいろな手伝いをさせた。おかげで、両親が相次いで亡くなってからも、なんとか家を切り回していくことができた。が、そんな日常の「掃除」と、この寺における「掃除」とでは雲泥の差があった。
 ただ単に、きれいにするためだけの掃除ではない。掃除という行為そのものが「業」なのだ。
「床が曇っている」
 拭き掃除をしているとき、いきなり頭上から声がした。篝だ。
 いつのまに来たのだろう。まったく気配を感じなかった。藍は自分が無防備だったことを恥じつつ、顔を上げた。
「おはようございます、叔父上」
 篝は藍の父、桐野玄舟の従兄弟である。厳密に言うと「叔父」ではないが、以前から便宜上そう呼んでいた。
「床が曇っていると言ったのだ。そこの角から、ここまで。いま一度やり直すように」
「……はい」
 口応えはおろか、私語は許されない。ここでは日常のあいさつすらも「私語」なのだ。
 黙々と決められた作業をし、座禅を組み、経を詠ずる。俗世とはまったく違った時間と空間に、藍は焦りを感じはじめていた。


「お願いがあるのですが」
 その日の夜。
 訓練の時間をとらせてほしいと訴えた藍に、篝は冷ややかな一瞥を投げた。
「ほう。もう音を上げたのか」
 手元の湯呑みに薬湯を注ぐ。篝が自ら調合したものらしい。それをゆっくりと口に運び、
「よくもまあ、そんなことで『水鏡』になるなどと言えたものだ。しかもあの昏一族相手に」
「音を上げたわけではありません。ただ、おれは水鏡の修業をしに来たのであって、僧になるわけでは……」
 そこまで言って、あることに気づく。
 昏一族相手に、だと? だれが「昏」と対など組むか。第一、昏一族に「対」など不要だろう。
 生まれながらに透視や遠見ができ、桁外れの情報処理能力を持つ血族。そんな輩に補佐も補助も必要ない。
「藍」
 ため息まじりに、篝は言った。
「おまえはそれでも、九代さまの『手』か」
「叔父上……」
 思考が顔に出ていたらしい。藍は唇を結んだ。
「その様子では、九代さまの真意は汲み取れておるまい」
「真意?」
「そう。九代さまが、なにゆえおまえの上奏を取り上げたか。少し考えれば、わかりそうなものだが」
 篝は厳しい表情で続けた。
「九代さまのお声がかりで発足する特務三課については、いまだに賛否両論ある。『昏』がらみとあればなおさら、な。九代さまにとっては、おまえの進言は棚からぼた餅だったはず」
 藍は眉を寄せた。
「どういう意味です」
「まだわからないか? 九代さまは、真実おまえが『手』を辞めることをお認めになったのではない。『昏』の水鏡におまえをあてがい、現状を探らせようとなさっているのだ」
「それぐらいのことは、わかっています」
 考えなかったわけではない。なにかウラがなければ、こんなにあっさりと異動が成るはずはない。いずれ新たな下知が下るであろうと、想像していた。
「ですが、おれは『昏』の水鏡になるわけでは……」
「なにを寝惚けている」
 あきれたように、篝は言った。
「社銀生は『昏』ではないか」
「え……」
 その言葉の意味を理解するのに、いくらかの時が必要だった。
 そうか。そうだったのか。
 あの男も、「昏」のひとり。なぜ、こんな簡単なことに気づかなかったのだろう。
 十六年前の惨劇のあと、ずっと「昏」を監視してきたとあの男は言った。そんなことを為しうる者。それが同族である可能性を。
「とうに承知していると思っていたが」
 篝は手にしていた湯呑みを側卓に置いた。
「それすら知らず、三課に移ろうとはあきれ果てたやつよ。いましばらく業を積み、おのれの求むるものがいかほどのものか、よくよく考えるがいい」
 言い置いて、奥の間へと去る。
 空になった湯呑みを前に、藍はいま聞いた事実を反芻していた。


『今、ここに在ること』ACT17へ