禍事〜まがごと〜 




ACT7
(十六話対応)

 白々と夜は明けて。
 藍が帰っていく。まるでひと晩中、閨の行為を強いられたあとのように憔悴しきった様子で。銀生はそれを、目を閉じたまま見送った。
 一触即発の、いくさばにいるような夜だった。緊張と興奮と高揚。薄闇の中、藍の息遣いが空気を震わすたびに、じかに触れるよりも鋭い感覚が脳細胞を刺激した。
 きっといまごろ、あの人は混乱している。碧のことなんか考えられないくらいに。
 銀生はゆっくりと目を開けた。夜具の上に愛しい人の残像を描く。はじめて見た素のままの姿は、想像をはるかに上回っていた。
 あれほど極上の据え膳に手を出さなかったのは、ちょっと惜しかったような気もするが、抱いてしまえばそれで終わりだ。本当にほしいものは、永劫に手に入らない。だから。
 今度こそ、しっかり俺を見てくださいね。俺の心臓を射貫くほどに。
 その覚悟で来てくれたら、きっと喜んで迎え入れるだろう。命のやりとりと愛の交歓。どちらも極限を求めるのは同じだ。
 結局その日、藍は欠勤した。参謀室に届を提出し、桐野の家に帰り着いたところまでは遠見の術で追っていたのだが、着替えもせずに夜具に倒れ込んだのを見て、今日は本当に「欠勤」するのだと納得した。
 それはまあ、そうか。ここしばらく、通常の業務に加えて「手」の仕事に追われ、寝る暇もなかったのだ。食事もまともに摂っていなかったようだから、もう限界だったのかも。
 おそらく藍は、昨夜で決着がつくと思っていたはずだ。頭を下げて身を供すれば、銀生を取り込むことができる、と。
 それが徒労に終わり、これまでのハードスケジュールと心労が重なって、電池が切れたような状態になったのだろう。
 遠見を打ち切り、家を出る。さて、今日はどうするかな。久しぶりにあいつらの様子でも見にいくか。それなりに仲良くやってるとは思うけど、あのあとの展開も気になるしねえ。
 指導教官とは名ばかりの男は、ぶらぶらと軍務省へと歩を進めた。


「あらら、なによ。おまえひとり?」
 集合場所になっている旧独身寮の集会室には、黒髪の部下がいた。
「あいつはどーしたの」
「休みだ」
 ぼそりと、昏。
「休み?」
 銀生は眉をひそめた。
 桐野碧。前向きで明るくて元気なのが取り柄の「水鏡」候補。ちょっとやそっとのケガぐらいものともしないはずのあいつが、「休み」ねえ……。
「ふーん。てことは、とうとうヤっちゃったワケ?」
 ギロリとにらんでくるかと思ったら、ぐっと唇をかみしめたまま一点を見つめている。
「なーによ、そのカオは。長年の思いがかなったっていうのに、暗いねえ」
 くしゃくしゃと頭を撫でると、昏はあからさまに嫌な顔をしてそれを払った。
「なに気にしてんのよ。いいじゃない。これではっきりするでしょうー?」
 ぴらぴらと手を振りつつ、銀生は言った。
「おまえのことだから、もうちょっと我慢するかと思ったけどね。まあ、駄目んなるなら早い方がいいし」
「楽しそうだな」
 低い声。あーあ、声までクラいよ。
「なにが?」
「俺が力を使って碧を支配したことが、そんなに嬉しいか」
 なるほど。よーするに、ゴーカンしちゃったのね。若さゆえの過ちってやつ? 銀生はにやりと口の端を持ち上げた。
「べつにー。俺はどっちでもいいのよ。どのみち、いままでとそう変わらないだろうからね。ともかくあとは、あいつ次第。『水鏡』候補やめてもいいし、いろいろヤられちゃったことを乗り越えてまでおまえと組むってんなら、それに越したことはないしね」
「馬鹿な。いくらあいつでも、そこまでお人好しじゃない」
「そう? でも、世の中いろんなやつがいるからねぇ……」
 あいつを「お人好し」なんて世間並みのレベルで考えてちゃダメでしょーが。惚れた相手のことなのに、肝心なところがわかってない。まあ、惚れてるからわかんないってのもアリだけど。
 銀生は藍の真摯な瞳を思い出した。
 あの人も、そうだよねえ。碧のことがいちばん大事で、なによりも碧を大切に思っていて。だからこそ、自分のことも相手のことも、自分たちが置かれている状況も冷静に判断することができなくなっている。
「ま、今日は休みにするけど、あしたは連れて来なさいよ。ただでさえ、だれかさんのせいで訓練の日程が押してるんだから」
 釘を差すと、昏がじろりと見返してきた。
『訓練など、もう終わりだ』
 そんな声が聞こえてきそうな顔。
 残念でした。そう簡単に「終わり」にされちゃ困るのよ。あいつだって、「終わり」にする気なんかさらさらないだろうし。
 さーて。せっかく出てきたんだから、鬼塚と賭け将棋でもしてくるかな。二課がややこしいヤマを抱えてなければ。
 あいかわらず縦線を背負ったままの昏を残し、銀生は軽い足取りで集会室をあとにした。


 翌日。
 銀生の予想通り、碧は何事もなかったかのように訓練に参加していた。見たところ、後遺症はなさそうだ。アレだけじゃなく、「力」を使って頭ん中支配したって聞いたから、もしかしたら影響が出てるかと思ったけど。
 演習場を見下ろす大木の上で、銀生は部下たちが気の同調訓練を始めるのを眺めていた。昏が妙にぎこちない。及び腰とでもいうのだろうか。碧の方は気合い十分で、安定度はともかくパワーだけなら昏に負けず劣らずといったところだ。
「なにボーッとしてんだよ。いくぜっ」
 しびれを切らしたのか、碧ががなっている。昏はそれで意を決したようで、先日来続けている訓練メニューをひとつひとつこなしていった。
 あいつらは、まあまあオッケーだね。
 銀生はそっとその場を離れた。ゆるゆると総務部へ向かう。
 先刻、桐野の家を遠見の術で見たときには藍の姿はなかった。今日は通常通り、出勤しているはずだが……。
「あれえ?」
 こちらは、予想を裏切られた。藍は今日も欠勤しているらしい。医者にでも行ってるのかな。ふとそう思ったが、軍務省の職員は仕事の性質上、外の医療機関にかかることは認められていない。病気にしろ怪我にしろ、軍務省の医療棟で診察を受ける決まりになっている。念のため医療棟にも足を運んでみたが、藍はいなかった。
 どこに行ったんですかねえ。だーいぶ思い詰めてたみたいだけど。
 銀生は目を閉じた。もうひとつの瞳を呼び出す。
 冴え冴えとしたふたつの蒼が現れた。「鬼」の力を宿したそれで、藍の「気」を探す。都中に網の目のように触手を伸ばして……。
 見つけた。
 銀生はわずかに目を細めた。
 藍は書記官の正装で佇んでいる。白い顔。目の下にはくっきりと隈。張りつめた表情で、無人の首座を見つめている。
 しばらくして、両開きの大きな扉がゆっくりと左右に開いた。長衣の衣擦れと、塗りの沓音が近づく。藍は作法通りにひざを折り、首を垂れた。
 いったいなにを考えてるんです、藍さん? そんな大仰な真似をして。
 藍がいた場所。そこは。
 和王、九代目御門の謁見の間であった。


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