禍事〜まがごと〜 




ACT6
(『今、ここに在ること』ACT13対応)

 郊外のその屋敷には、防御結界が張ってあった。
 国家機密に関わる任務をいくつもこなしてきた男の家である。それは当然と言えた。いや、かえって、防御結界だけではなまぬるいほどだ。いくら強固なものだとしても、一重の結界では波長さえ掴めれば容易に解除できるのだから。
 藍は神経を集中して、結界の性質とベクトルを探った。
 やはり、な。この程度なら数秒で解ける。はっきり言って、泥棒除け程度の代物だ。低く口呪を唱え、結界の支柱に向けて解除印を組んだ。かすかな音。屋敷を取り囲んでいた結界が一瞬で消えた。
 他愛ない。防御結界の内部に、もうひとつトラップの結界でも潜ませているかと思ったのに。
 藍はゆっくりと、中庭に回った。あの男は縁側にいる。まったく気配を消すこともせずに。
 生け垣の隙間から前栽のあたりを窺うと、果たして銀生は、縁に腰掛けてこちらを見ていた。口元に薄い笑みが乗っている。
「こんばんは、藍さん」
 おっとりとした声。やけに余裕がある。
 そうか。おれが今日、ここに来ることなど、とっくに承知していたか。
 昨日、近衛府に関する仕事が完了した。いわゆる「手」の任務。急務であったため、通常業務とのやりくりがつけられず、ほぼ毎日徹夜に近い状態だった。おかげで碧の様子を見にいく暇もなく、やっと今日になって時間がとれたので演習場に行ったものの、まるで最前線のような結界に阻まれてしまった。
 この結界は「昏」ひとりだけのものではない。いつぞやもそう感じたが、今回はそれを確信した。
 社銀生。十六年も前から「昏」を監視してきたという、得体の知れない男。あの男が、旧独身寮と演習場を包む複雑なシールドを張ったのだ。
 いったいなにを考えているのだろう。「嫌なら潰せばいい」などと言っておきながら、いまは碧が「昏」と対を組むのを奨励しているのか。
 「怒り」という言葉だけでは言い表せない感情が渦巻いていた。とはいえ、藍とて訓練を積んだエージェントである。御門の「手」として、幾多の工作も手掛けてきた。ここで私情のままに行動して、利があるとは思っていない。
 とにかく、碧に会わねば。会って、もう一度説得するのだ。「昏」がいかに危険な存在なのかを。そして、「昏」相手でなくとも、御影本部に入れる道はあるのだということを。
 冷静になって話し合えば、きっとわかってくれる。あいつがまともに言葉も話せなかったころから、自分たちは一緒に暮らしてきたのだから。
 藍は銀生を見据えたまま、歩を進めた。沓脱ぎ石の前まで来て、丁寧に一礼する。
「夜分にお邪魔いたしまして、申し訳ございません」
「やだなあ。堅苦しいアイサツは抜きにしましょうよ。俺と藍さんの仲で」
 にんまりと笑って、銀生。藍はわずかに眉をひそめた。
 なにが「俺と藍さんの仲」だ。このあいだは、閨に置き去りにしたくせに。
 あの折の、言い様もない不快感が甦る。が、ここでそれをあらわにするわけにはいかない。藍はちらりと膳を見て、
「これは、もしかして冰の国の?」
「ええ、そうですよ。あ、よかったら、一杯いかがです。これでよければ」
 いままで自分が使っていたであろう盃を差し出す。藍はそれを受け取った。なみなみと、透明な液体が注がれる。
「いただきます」
 くい、と飲み干した。胃の腑に沁み入る。焼け付くような感覚に、軽い吐き気を覚えた。
 じつは藍は、朝から食事を摂っていなかった。今日だけではなく、近衛府に関する仕事が入ってからは、ずっとまともなものを食べていない。簡易栄養食とビタミン剤、それにプロテイン飲料などが三度の食事の代わりだった。
 仕事に追われる日々。碧もいない。そんな状態で、料理を作る気にもなれなかったし時間もなかった。今朝はなんとかインスタントのスープを飲んできたが、昼は報告書の作成やら事後処理が山積みで、結局また食事を抜いてしまったのだ。
「おやあ、大丈夫ですか?」
 銀生が立ち上がった。
「なんか、具合悪そうですねえ」
「……なんでもありません」
 ここで弱みを見せてはならない。藍は銀生に盃を返した。
「今日は、お願いがあって来ました」
 こっちの「弱み」は、しっかり見せなくては。思いつめたような顔で、銀生を見つめる。
 すぐには言葉を続けなかった。なにしろ「弱み」につけ込んでもらわねばならない。沈黙が流れた。
「……ふうん。あんたが俺に『お願い』ねえ」
 声音が微妙に変わった。切れ長の目を細める。
「詳しい話は、奥で聞きましょうか」
 銀生の指が藍のあごにかかった。
「ね、藍さん?」
 唇が近づいてくる。藍はそれを受けた。腰に手が回る。体が密着した。熱がじわりと伝わって。
 深く、探るような口付け。心配などしなくても、なにも仕込んでいない。いまあなたを殺しても、なんの得にもならないから。
 舌を絡めて、応じる。もういいだろう。これ以上のことを、ここでするわけには……。
 息苦しさと、ある種の感覚。かすかな目眩を感じたところで、やっと唇が解放された。
「よかったですよ」
 藍を抱きかかえたまま、銀生は言った。
「今日は小柄もなかったし」
 そうだとも。護身用の武器は置いてきた。危険だとは思ったが、敢えて丸腰でここに来たのだ。
「……必要ありませんから」
「うれしいことを言ってくれますねえ」
 銀生はするりと腕を抜いた。
「風呂を沸かしてきますよ」
 すたすたと、奥へと入っていく。
 今度こそ。
 藍は心の中で大きく息をついた。今度こそうまくいった。これでこの男を、動かすことができる。
 風呂場へと向かう背を見送りつつ、藍は次のシーンをシミュレートしていた。


 風呂の中まで付いてくるかと思ったが、銀生は脱衣所で手拭いと夜着を渡しただけで引き上げていった。もっとも、にんまりとした顔で「蒲団、敷いときますね」と言っていたので、その気は満々だろう。
 藍はざっと汗を流した。あまり待たせてはいけない。手早く体を拭いて、夜着をまとう。帯はゆるめに結んだ。解くのに手間取っては興ざめだ。流れを途切れさせてはならない。藍は足早に座敷に向かった。
 奥の間には、すでに夜具の用意が整っていた。行灯の明かりがゆらゆらと室内を照らしている。
「失礼します」
 戸口で声をかける。
「ああ、藍さん。わりと早かったですねえ」
 銀生は膳を脇に遣った。藍は襖をぴたりと閉め、夜具の上に進んだ。
「もっとゆっくりかと思ってたのに」
「……なぜです」
「だーって藍さん、ヤル気なんでしょ? 俺に『お願い』だなんて」
 くすくすと笑って、続ける。
「だから、カラダを隅々まで磨いてるかなーって……」
 思わず、手が出そうになった。「磨く」だと? だれが、そんなこと……。
 爆発しそうな感情を、やっとの思いで留めた。碧。碧に会うまでは。
 こぶしをぎゅっと握る。ゆっくりと、藍は顔を上げた。
「確認、なさったらどうです」
 おれの体を。それこそ隅々まで。
 好きにすればいい。やりたいようにやればいい。そのかわり、碧は返してもらう。
 一途で、明るくて、なにに対しても懸命な碧。金髪碧眼という外見のためにいわれない差別を受け続け、命の危険にすら何度も晒された。それでも、世の中を恨むこともなくねじくれることもなく、まっすぐに強く育ってきた。そんな碧に、もうこれ以上の苦しみを与えたくはない。
 「昏」。和の国において、もっとも忌むべき一族の末裔など……。
「いい顔ですね」
 うっとりと、銀生は言った。
「この世の名残りに見たいほどですよ」
 長い指が頤にかかる。先刻と同じ口付けが訪れる。中を探り、辿り、犯していく。
『脱いでください』
 ほとんど遠話に近いほどの波長の声で、銀生は命じた。口付けを続けたままで。
 藍は銀生の胸を押した。横を向いて、ゆっくりと帯を解く。するり。夜具の上に、それは生き物のように滑り落ちた。
 肩が、胸が、腰が。次々に顕になっていく。下衣は付けていなかった。閨に侍るのだ。そんなものは、不要だと思ったから。
「……そんなに碧が大事?」
 ふいに、囁かれた。体が硬直する。
「どうなのよ」
 冷ややかな双眸がこちらを見据えている。
 なんだ。これは。いま一瞬、目の色が違って見えたような……。
「言うまでもないでしょう」
 ぴりぴりとした空気の中、藍は答えた。
「ふーん。なるほどね」
 くすりと笑って、銀生は灯を消した。いよいよか。そう思ったとき。
 銀生は毛布をひきずって、座敷の隅に移動した。
「じゃ、おやすみ」
 あっさりとそう言って、毛布をかぶる。藍は一瞬、なにを言われたのかわからなった。夜具の上に座したまま、呆然と部屋の隅を見遣る。
「なぜ……」
「いまのあんたに、興味はないからね」
 蠅でも払うように手を振って、銀生は言った。壁にもたれたまま、顔を上げることもせずに。
 薄く差し込む月明かりが、ふたつの陰影を映し出す。
 墨染めの空が明けの色に変わるまで、ふたりともその場を動くことはなかった。


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