今、ここに在ること  by (宰相 連改め)みなひ




ACT16

 重い。
 一足ごとに、地面にめり込んでいくような気がする。
 もうすぐだ。
 もうすぐ「終わり」が見つかる。
 俺は、それを望んでいたはずだ。


 ガサガサと右手のビニール袋が鳴る。
「昏ちゃん。ほら、シャケ弁二つ残しといたよ。余ったキンピラも容器に詰めといたから。友達と仲良く食べるんだよ」
 藤食堂のおかみは言った。このところ二つ弁当を買う俺に、気をきかせてくれたらしい。快活に笑うその人に、俺は弁当は一つでいいとは言えなかった。差し出される袋を受けとり、代金を払う。おかみはキンピラ代は受け取らなかった。
「いいのよ。こっちも残飯処理させてるみたいなもんだし。明日の朝、また頼むね」
 その食堂に俺は十一の頃から通っている。世話役の爺が死んで、一人暮らしを始めた時から。
「あんた、ろくに食ってないでしょ。来なさい」
 すれ違っただけの俺に、藤食堂のおかみは言った。返事をする間もなくここに連れて来られ、ご飯と煮物、焼き魚に具だくさんの味噌汁を食べさせられた。当時銀生はたまにしか来ず、自炊するしかなかった俺は、食べ物らしい食べ物を摂っていなかった。栄養補助として毎月御影研究所から送ってくる、簡易栄養食を食べるくらいで。
「遠慮なんかなしだよ。子供がすることじゃない。腹一杯食べて、しっかり遊ぶもんだ。食べられないんだったらうちにおいで。その代わり、店を手伝ってもらうよ」
 戸惑う俺に、おかみはそう言って笑った。以来、俺はここで食事を摂り、代わりに朝の開店準備を手伝っている。藤食堂のおかみは女手一つで三人の子供を育て上げ、今は店を一人で切り盛りしていた。
「じゃあね。弁当箱と容器、洗って持ってきとくれよ。おやすみっ」
 背中をばしんと叩かれ、店の外へと送り出された。俺はため息を一つ漏らして、自分の家へと足を向ける。
 さすがに、今夜二つは食べられないな。
 歩きながら、下げた弁当を見やって思った。
 まあいい。冷蔵庫に入れておけば、朝まで保つだろう。
 せっかくおかみの作ってくれたものを、残してしまうわけにはいかない。そんなことを考えながら、俺は家へと歩いた。
 自宅への道を、一人で歩く。
 それまで何年もしてきたはずなのに、こんなにも遠いと思ったことはなかった。
 重いな。
 足を動かす度に思う。理由はわかっていた。重いのは足ではなく心。弱くて覚悟の決まらない俺の心だった。
「いいじゃない、これではっきりするでしょうー?」
 碧との事を聞き、銀生はそう言った。
「お前のことだから、もうちょっと我慢するかと思ったけどね。まあ、駄目んなるなら早い方がいいし」
 自分でそう仕向けたくせに、他人事のように言う。いつもの言い草だけに、よけい神経を逆なでされた。
「楽しそうだな」
「何が?」
「俺が力を使って碧を支配したことが、そんなに嬉しいか」
 敵意を込めて言った。面白そうに笑む目とぶつかる。にやりと笑って銀生が返した。
「べつにー。俺はどっちでもいいのよ。どのみち、今までとそう変わらないだろうからね。ともかく後は、あいつ次第。『水鏡』候補やめてもいいし、いろいろヤられちゃたことを乗り越えてまでお前と組むってんなら、それに越したことないしね」
「馬鹿な。いくらあいつでも、そこまでお人好しじゃない」
 どこにいると言うのだ。身体を支配され、心まで支配されておとなしく黙っている奴が。
「そう?でも、世の中いろんな奴いるからねぇ・・・」
 うそぶくように銀生は言った。曖昧な笑み。全て見透かしているような。悔しくなる。「昏」としての能力は、純血種である俺の方が勝っているはずなのに。
「ま、今日は休みにするけど、明日は連れて来なさいよ。ただでさえ、誰かさんのせいで訓練の日程が押してるんだから」
 最初に体術で振り落とそうとしたことを、まだ根に持っているのか。銀生はちろりと俺を見た。俺は憮然と見返す。訓練など終わりだ。あいつは自分の家に帰っているだろうし、訓練にも来るはずがない。明日あたり、あの義兄が辞表を持ってくるはずだ。

 いいのだ。
 これは俺が望んだ結果だ。
 碧を傷つけてしまったけれど、その方がかえってよかったのかもしれない。
 あいつはこれで、おれには近づかないだろうから。
  
 考えながら歩いているうちに、やっと家が見えてきた。視えた気にハッと気付く。家に、あいつがいる。
 間違いない。でも、どうして。
 全力で走り出した。碧の気を感知している。けれど、この目で確かめなければ。
 ガラガラガラッ。
 数瞬で家に着き、思い切り戸を開けた。奥の間へと進む。いた。
「よう」
 あいつは敷かれたままの布団に、だらりと寝そべっていた。回復していないのだろうか?顔色は悪くないが。
「動けないのか?」
 不安になって訊いた。もしかしたら、関節とか痛めてしまったのかもしれない。それとも頭を覗いた時、どこか神経系をいじってしまったのか?否。抵抗こそ封じたが、視ただけで操作はしなかったはずだ。
「動けねぇよ」
 言いながら、碧はもそりと起き上がった。俺はホッとする。よかった。身体に支障はないようだ。
「おい」
 据わった目を向けられる。罵るつもりだと身構えた。
「おまえ、なんか買ってきたんだろうなっ!」
 突然、碧は大きく言い放った。一瞬、思考が止まる。何のことだかわからなかった。
「なにボーッとしてんだよっ、食いもんに決まってるだろっ!」
 再度言われて我に返る。持っていたものを思いだした。躊躇いながらも差し出す。碧がひったくった。
「なんだー、あるじゃん。あるならさっさと出せよ」
 あいつはごそごそと弁当を取り出し、勝手知ったる状態で箸を持ってきた。今はどうやって沸かしたのか、コップに麦茶を入れている。
「訊くけど、これもおまえの驕りだろうな?」
 弁当を前に、碧は確認するように訊いた。俺は勢いに呑まれ、頷く。
「なら、いいんだ。いっただっきまーす」
 ぱしりと手を合わせ、あいつは弁当を食べだした。シャケ弁と余りものキンピラが、みるみる間に減ってゆく。茫然と俺は見ていた。
「なんだよ」
 しばらくして、俺の視線に気がついた碧が言った。怪訝そうな顔。警戒しているらしい。
「どうして、家に帰らなかったんだ?」
 ひどく掠れた声が出た。必死で絞り出したのだが。
「何か、不都合でもあったのか?それともまだ身体が・・・・・」
「なんで帰るんだよっ!」
 目尻を釣り上げ言われた。苛立った表情。どうして。
「帰らないって言っただろ!おれは、おまえの水鏡になるのっ!」
「何故だ。俺は、お前に・・・・」
「だからどうだってんだ!おまえ、おれに決めろって言ったじゃん。なら、決めさせろよ!」
 理解できなかった。碧は逃げない。ここを出るつもりもない。俺から離れる気はないのだ。
「おまえはおれん中全部視た。おれを好きにもした。だったら、それでいいじゃんか!」
 ぱしりと箸を置き、弁当を食べ終わった碧が席を立つ。立ち上がった動作が、身体の回復を示していた。
「どこへいくんだ」
「風呂。昨日入れなかったから」
 踵を返し、あいつが部屋を出てゆく。障子の前でぴたりと止まった。
「先に言っとくぞ。今日はやだからな」
 くるりと振り向き、碧が言う。俺は言われた意味がわからず、呆然と見上げた。
「あんなの、連日はごめんだって言ったんだ!」
 あいつが言い捨てる。ぴしゃんと障子が閉まった。遠ざかる足音。残された俺は一人、混乱し続けていた。
 何故。どうして。疑問符だけが回る。何から何までわからない。あいつがどう考え、なぜここに居続けるのか。
 もう一度あいつを視れば、わかるのだろうか。
 ぼんやりと思ったが、二度とそうするつもりはなかった。碧もされたくないだろうし、俺もしたくはない。
 答えに繋がる手がかりさえ見当たらなかった。しかし、今の俺には考えることしか出来ない。
 碧は入浴してきた後、少しの間こちらを窺っていたが、敷かれたままの布団でさっさと眠ってしまった。

 まだ「終わり」じゃない。
 しかし、どこへたどり着くと言うのだ。
 混乱とほんの少しの安堵。複雑な思いを胸に、俺は考え続けた。


銀生×藍連動作『禍事』ACT7へ