禍事〜まがごと〜 ACT5(『今、ここに在ること』ACT12対応) まったく、ご苦労なことで。 銀生は自宅の座敷で遅い朝食を食べながら、くすくすと笑った。その双眸は、冷ややかな蒼に変わっている。 藍は夜半に特務二課を訪ねて以来、つてのある部署に次々と探りを入れていた。今日はどうやら、参謀室に欠勤届を出したらしい。 あーあ、また碧のためにズル休みですか。そーゆーことが続くと、「手」の仕事に差し障りが出ますよ。ま、それだけ碧がかわいいってことなんでしょうけど。 茶碗を手にしたまま、漬物に箸をのばす。んー、このお新香は最高だねえ。やっぱり漬物は「壺ノ屋」に限るよ。 老舗の漬物屋の新香を堪能しつつ、さらに軍務省内部に視覚を飛ばす。藍は特務一課や秘書課にも足を運んでいた。 なるほどね。特務一課には錦織誠(にしきおり まこと)がいるし、秘書課には東風一葉(こち かずは)が勤務している。ふたりとも桐野財団が出資している孤児院の出身で、碧とは幼馴染みだ。藍に叱られたときなど、碧はよく、ふたりの家に転がり込んでいた。その関係で、なにか事情を知っていると思ったのだろう。が、当然ながらふたりとも、今回の件にはノータッチだ。 『碧くんが研修に入ってからは、一度も会ってないです』 誠は断言した。 『ぜーんぜん、連絡もくれないんですよ。そりゃ、御影に入れるかどうかの瀬戸際だから、仕方ないとは思うけど』 一葉が心配そうに言う。 心当たりがことごとく外れた藍は、眉間にしわを刻んで参謀室近くまで戻ってきた。さあて、次はどう動きますかね。ほとんど覗き状態で、藍の様子を透視する。 一瞬、藍が立ち止まった。踵を返して駆け出す。 あらら、演習場に行くつもりかな。そりゃちょっとマズイよねえ。あいつらがゆうべ、どうなったかまでは「視て」ないけど、少なくともふたりそろって出てきてる。せっかくナカヨクやってるのに、邪魔するのは野暮だよ。 銀生は箸を置いて結界印を組んだ。防御結界と、遮蔽結界。二重に編んだそれを「気」に乗せる。転送。昏の張った結界の外に、さらにシールドを張る。これで、だれも演習場には近づけまい。 すみませんねえ、藍さん。あいつらには、うまくいってもらわないと困るんで。そのかわり、あんたのお相手は俺がしますから。 両の瞳を常の色に戻し、ゆっくりと食後の茶をすする。 でも、ま、せっかくだから、もう少し時間稼ぎをさせてもらいますよ。あいつらのためにも、ね。 銀生は薄い笑みを唇に乗せた。 なかなか、面白くなってきたな。 数日後、旧独身寮の集会室で豚みそキムチラーメンを食べながら、銀生は思った。碧は昏との生活に馴染んできている。頭でっかちの昏はいまだに碧に手を出していないようだが、まあ、それも時間の問題だろう。心にも体にも、限界ってモンがある。そのあと、どうなるか。おおよその見当はついている。 まーた厄介なことになりそうだねえ。碧はともかく、昏の方が。 碧が、昏の残したラーメンを旨そうに食べている。 「おまえ、しつこいの嫌いだったの。なら、次はスーパーあっさり鶏ガラにするから」 言いながら、にっかりと笑う。 いいねえ。この、あけっぴろげな「気」。ウラも表もない、まっすぐな瞳。およそ負の部分がない。こいつの生い立ちを考えれば、もっとひねくれていてもよさそうなものなのに。 「あー、食った食った。さ、昏。つづき、やろうぜっ」 碧が昏を促す。昏は憮然とした顔で立ち上がった。 はいはい。せいぜいがんばってねー。昏のことはおまえにまかせたから。 指導教官にあるまじきことを思いながら、若者たちを見送る。さて、と。それじゃ午後からはまた例ん所に行きますかね。もうひとりの「頭でっかち」な人のところに。 いま、どこでなにをしてるかな。通常業務と平行しての「手」の仕事。毎日ほとんど寝る時間もないくらいのはずだが。 銀生は目を閉じた。神経を集中して、目指す相手を探す。 ほう。今日は近衛府のお偉方と会食ですか。くすりと笑って、目を開く。蒼い双眸の奥に、藍の柔和な笑顔が映った。他愛もない会話を交わしながら、少しずつ必要な情報を引き出している。 今回のあの人の仕事は、近衛隊の「掃除」だ。王の身辺警護を主な任務とする近衛隊は、貴族や高位の官僚の子弟によって構成されているが、だからといって叛意を持つ者が皆無というわけではない。現に七十年ばかり前には近衛府によるクーデターがあり、時の和王は側近の多くを失っている。 近衛府内の不和を、軍務省トップの通称「冠(かむり)」にリークしたのは、銀生だった。急を要するほどではなかったが、そう上申しておけば、御門は近衛府に「手」を差し向けるだろう。それも、「手」の中でも群を抜いた実力を有する者を。 予想通りだったな。 銀生は心の中で独白した。冠からの報告を受けた御門は、自分が最も信頼する「手」に下知を下した。すなわち、桐野藍に。 碧を「昏」から引き離そうとやっきになっていた藍。あのまま放っておいたら、多少強引な手段を用いてでも、碧を取り戻そうとしたかもしれない。それこそ、自ら碧に手傷を負わせてでも。 あの日。徹夜明けで碧の行方を探して、やっと見つけて。それなのに、碧から「帰らない」と言われて。 ショックだっただろうねえ。なによりも碧を大事に思ってて、だれよりも碧のことをわかっていると思っていただろうから。 藍の気配が動いた。食事が終わったらしい。銀生は自身に遮蔽結界を張った。藍の様子をもう少し近くで見るために。 素早く印を組む。一瞬ののち、銀生の姿は集会室から消えていた。 それから、幾日かたった夕刻。 銀生は縁側で、「吉膳」で分けてもらった冷酒を飲んでいた。冰の国の吟醸酒。過日、藍と一緒に飲んだ酒だ。 やっぱり旨いねえ。これでとなりにあんたがいれば、言うことないんだけど。 なにげなく庭を見遣る。薄く色を付けはじめた紫陽花が、夕暮れの風にゆったりと揺れている。それを眺めながら、銀生は硝子の盃に酒を注いだ。一杯。また一杯。 四半時ほどして、二合瓶が空いた。外はすっかり暗くなっている。 藍の「仕事」は、昨日でほぼ方が付いた。近々、近衛府の高官のひとりが「急死」するだろう。おそらくは心臓発作か脳梗塞あたりで。 事を公にするのははばかられる。いまごろは御影本部に暗殺指令が出ているはずだ。 そろそろ、来ますかねえ。 銀生は盃を置いた。演習場と昏の家には、十重二十重に結界を張っておいた。いくら優秀な「手」といえども、それを破るのは容易ではあるまい。 あのときと同じように、いや、それ以上に。血が沸き上がるような感覚を味わいたい。今度は小柄なんかじゃなくて、あんたの唇で、体で、あの快感を与えてほしい。 待つ時間は長い。でも、そのあとの美酒はさらに全身を満たしてくれるだろう。 やや湿った、夏の匂いのする風が吹く。ぼんやりと浮かんだ月が少しずつ空を渡って。 ふわり。 覚えのある「気」が、銀生が自宅の周りに張った結界に触れた。空間が微妙に揺れる。数瞬ののち。 かすかな金属音がして、結界は消滅した。 「うわ。やってくれるねえ」 一重の防御結界だが、かなり厚く張っていたはずだ。それがこうも簡単に解かれるとは。銀生はにんまりと口の端を上げた。 「こんばんは、藍さん」 庭先に現れた人影に向かって、わざとのんびり言ってみる。藍はこちらを見据えたまま、歩を進めた。 『今、ここに在ること』ACT12へ |