禍事
〜まがごと〜 




ACT4
(『今、ここに在ること』ACT11対応)

 ずいぶん奮発したものだ。
 ずらりと並んだ料理を見て、藍は思った。
 「吉膳」は規模は小さいが老舗の料亭で、都では知る人ぞ知る存在だ。その店の、季節限定の特別料理ばかり次々と注文して、さて今日の支払いはいかほどになるか。
「今夜は、帰しませんからね」
 相好を崩して、銀生が言う。下卑た台詞。結局はその程度の男だ。藍は横を向いた。
 反吐が出る。が、直接的に「昏」を動かせるのはこの男だけだ。上の意向を無視して「いやなら潰せばいい」などとうそぶく男なら、こちらの出方次第でいくらでも操作できる。
「さ、どんどん行きましょう。ほーら、次の酒が来ましたよ〜」
 冰の国の吟醸酒。こんなときでなければ、もっとゆっくり味わえるのに。
 さわやかな香りのその酒は、いまは亡き父が好んで口にしていたものだった。輸入量が限られているので、滅多に手に入らないとぼやいていたのを思い出す。
 まさかこんなところで、この酒を飲むことになるとは。進められるまま、盃を重ねた。
 銀生はよく飲み、よく食べ、よくしゃべった。下世話な話から政治談義まで、ほとんど垂れ流し状態だ。
 このあとのことを考えて、高揚しているのだろうか。藍はちらりと奥へと続く襖を見遣った。
 おそらく、奥の間には閨の用意が整っているはず。つまらぬ話はいい加減に打ち切って、あちらへと誘えばいいものを。
 ことり。藍は、盃を置いた。
「すみません。ちょっと風に当たってきます」
 すでにかなりの数の銚子が空いている。酔いが回ってきても不思議ではない。そう計算して、藍は席を立った。いかにも足をとられたように、横に倒れ込む。
「あらあら、どうしました?」
 喜色満面、銀生が腰を上げた。藍の背を支えて、顔を覗き込む。
「大丈夫ですか」
「ええ、たぶん。……少し、休めば」
 弱々しく、言った。
「そうですか? じゃ……」
 銀生の手が腰に回る。ぐい、と引き寄せられた。
 よし。チェックメイト。心の中で、苦笑する。奥の間へと続く襖が開いた。思った通り、そこには夜具がしつらえてある。
「吐き気とか、ないですか? 服、ゆるめた方がいいですよねえ」
 襟元が開かれた。さあ。いよいよだな。
 この男は、どんな方法を好むのか。体を預けて、出方を探る。そのまま衣服を剥がれるのかと思っていたら、
「ゆっくり、休んでてくださいねー。俺、あっちで飲み直してますんで」
 藍を夜具に寝かせて、さっさと座敷に戻っていく。あまりにもあっけなく閉じられた襖。
「すみませーん。お酒、追加ね〜」
 のほほんとした声が聞こえる。
「よかったら、おねえさんも一緒に飲みません? 相方が潰れちゃったんで、俺、寂しいんですよー」
 年配の仲居相手に、なにやら世間話を始める。
「へーえ。おねーさん、生まれは涼の国なの〜。俺、海南地方の海産物って大好きなのよ。今度、ごちそうしてよー」
 他愛もない話が続く。古参の仲居はそれに過不足なく答え、適当なところでやんわりと制して、座敷を辞した。さすがに「吉膳」の仲居である。じつに見事な客あしらいだ。
 今度こそ、来るだろう。藍は夜具をかぶって息をひそめた。あの男が襖を開けたとき、いかにも具合が悪そうに見えるように。
 万全の態勢を整えたとき。
 びいいいいーーーん。
 なにやら、弦をつまびく音が聞こえた。
 べべべん、べんべんべん………。
 思わず、顔を上げる。なんだ、あれは。三味線か?
 そういえば、座敷の棚に飾ってあったような気もするが。
『浮き世は憂き世 仮寝の宿の手枕に
 なんの因果が在りょうかと せんに主さま仰せある
 さればこの身はうたかたに 消ゆるさだめと思し召せ』
 四、五年前から花街で謡われるようになった戯れ唄である。もとは錦翔楼の名妓、秋津太夫が登楼の間遠になった馴染み客に送った、恨み言の文であると言われている。
 なんだってまた、そんな唄を……。藍は細く明かりの漏れる座敷を見遣った。
 唄が一段落つき、ことんと三味線を置く音がした。しばらくの静寂。神経を張りつめて、隣にいる男の「気」を探った。
 ふたたび、夜具の中で待つ。あの男が奥の間に入ってくるのを。しかし。
 何度か手酌で酒を飲む気配がしたあと、銀生は座敷を出ていった。厠にでも立ったのか。そう思っていたのだが、結局、そのまま銀生は戻らなかった。
 どういうことだ。
 藍は混乱した。わざわざ「吉膳」に座敷を取って、閨まで準備して。そんな散財をして、どうしてなにもせずに引き上げてしまったのか。
『今夜は、帰しませんよ』
 下心丸出しの台詞まで口にしていたというのに。
 四半時ばかりのち。藍は襟元を直して起き上がった。あの男がいないのに、これ以上ここに留まる必要はない。
 座敷では、先の仲居が膳の上を片付けていた。藍の姿を認めると、
「もうお具合はよろしゅうございますか」
 脇へ座して一礼する。
「おかげさまで。あの、私の連れはどうしました?」
 答えはわかっていたが、訊いてみた。
「さきほどお帰りになりました。これをお預かりしております」
 仲居は側卓に置いてある風呂敷包みを手にした。見たところ、重箱のようだが。
「はあ、どうも」
 どうやら、あの男は土産まで用意してくれたらしい。まったく、いたれり尽くせりじゃないか。
 社銀生。いったい、なにを考えている。
 頭の中で、あらゆるパターンを検索する。が、そのどれもが、藍を納得させることはなかった。
 店を出て、自宅へと向かう。碧はちゃんと夕飯を食べただろうか。台所に食事の用意はしておいたが、いつぞやのように玄関で倒れ込むように寝てしまっていたら、いまごろ空きっ腹をかかえてインスタントラーメンでも作っているかもしれない。
 早く帰ろう。せっかくの「吉膳」の御重だ。碧にも食べさせてやらねば。
 藍は風呂敷包みをかかえ、家路を急いだ。


 桐野邸は、静かだった。どの部屋も明かりひとつ点いていない。もう夜も更けているので、それはあたりまえなのだが。
「……碧?」
 玄関を入った途端、藍はそれに気づいた。
 碧の気配がない。あの、あけっぴろげで警戒感のかけらもない「気」が、どこにも感じられない。
「碧!」
 風呂敷包みを下駄箱の上に打ち遣り、中に入る。台所、居間、客間、寝室、書斎、果ては風呂場や厠まで、あちこちを見て回る。やはり、いない。
 どうしたのだろう。訓練中にアクシデントでもあったのか。いや、それなら、銀生が知っているはずだ。あの男は今日、そんなことはひと言も言わなかった。ならば、なにか不測の事態が起きて……。
 碧はその外見から、過去、何度も危険な目に遭っている。和民族至上主義を掲げる狂信的なグループの中には、常識では到底理解できないような過激な行動に走る者もいる。
 藍はA級装備を整えて、自宅を出た。
 とりあえずは、特務二課だな。不穏分子の情報が入っていないかどうか、確認をとらねば。
 軍務省の各部は、当然ながら二十四時間体制で情報の収集にあたっている。この時間でも、夜勤の者がいるはずだ。
 「吉膳」から帰ってきたときの三倍のスピードで、藍は軍務省の官舎へと向かった。


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