禍事〜まがごと〜 




ACT3
(『今、ここに在ること』ACT10対応)

 切っ先の、冷たい感触。久しぶりに、ぞくぞくした。
 うっかりあの眼を出さなくてよかったよ。なにもかもを見透かす「鬼」の瞳。あれが出ていたら、ガマンできなかったかも。
 銀生はゆっくりと、紫煙を吐いた。そろそろ約束の刻限。ぼちぼち出かけるとしましょうか。
 場所は料亭「吉膳」。すでに座敷は押さえてある。もっとも、今日はまだ、枕を重ねるつもりはない。たとえ藍の方から誘ってきたとしても。
 思いっきり、計算してたな。「吉膳」の名を出したときの、藍の表情を思い出す。「手」としては優秀なのだろうが、義弟である碧に関しては、理より情が優先するらしい。
『あなたは、碧を潰すつもりですか』
 あのときの、鋭利な殺気。全身を覆う冷たいオーラを、鷲掴みにしたい衝動にかられた。
 桐野藍。これまでお目にかかったことがないほど、極上の素材。簡単に平らげてはもったいない。もっと熟成させて、じっくり料理して。最高の状態で、いただかなくっちゃね。
 煙草をもみ消し、立ち上がる。夕闇の迫る中、銀生は北町通りに向かって歩き始めた。


 予想通り、藍はもう席に着いていた。
「あー、すみません。待たせちゃいましたかね」
 ぴらぴらと手を振りつつ、言う。
「いいえ」
 藍は座蒲団を外し、頭を下げた。
「本日はお招きに与りまして」
「堅苦しいアイサツは抜きにしましょうよ〜。なにか頼みました?」
「まだですが」
「じゃ、てきとーに注文しますね。ここは、どれも外れがないですから」
 品書きの中から、いくつか選ぶ。
「酒は冰の国の吟醸酒を……っと、あのー、まさか、下戸じゃないですよね」
 藍の方を見遣って、問う。
「はい」
「んじゃ、とりあえずそれで」
「かしこまりました」
 年配の仲居が下がる。ほどなく、先付と酒が運ばれてきた。
「さ、まずは一献」
 銀生は銚子を手にした。
 藍は軽く頭を下げて、玻璃の盃に手を伸ばした。透明な液体が盃を満たす。ごく自然な所作で、藍はそれを受けた。
「頂戴します」
 くい、と一気に飲み干す。その盃を銀生に差し出し、
「どうぞ」
 わずかに濡れた唇が、笑みの形を作っていた。
 おやおや。こりゃずいぶんリキ入ってるねえ。なまじなやつなら、これだけで陥落するかも。
 そーゆーコトもやってきたってことですか。桐野財団の総帥ともあろう人が。いや、まったく、面白い。
 あんた個人だけでなく、財団というでっかいオマケまでついてくると錯覚したやつらの気持ちが、よーっくわかるよ。そりゃ、自分の首が飛ぶようなことだってしゃべるだろう。で、結果的にホントに首を落とされて。
 馬鹿だねえ。でも、ある意味、シアワセだったかも。
 藍はトップクラスの「手」だ。最後まで相手に真実を気づかせずに、任務を遂行したはずだから。
「社どの?」
 笑みを浮かべたまま、促す。
「ああ、どうも」
 盃に手をのばし、返杯を受ける。冰の国の、きりりとした辛口の酒がのどに流れた。
「いまの時期なら、さっぱりとした味の酒がいいと思いましてねえ。お口に合いました?」
「はい。社どのは、酒の種類にもお詳しいんですね」
「いやあ、ただ、飲ん兵衛なだけですよ。ときに……」
「はい?」
「その『社どの』っていうの、やめてもらえません?」
「しかし、あなたは碧の上司になるかたですし……」
「そんなの、まだ決まってないでしょ。まあ、上の方では昏と碧を組ませたいみたいですけどねー」
 「まだ決まってない」という言葉に、藍の目がわずかに反応した。まーたなんか、計算してるよ。忙しいねえ。
「では……なんとお呼びすればよろしいので?」
「銀生でいいですよ、銀生で」
「え、でも……」
「そのかわり、俺もあんたのことを名前で呼びますよ。それでいいでしょ、藍さん」
 言いながら、ふたたび酒を勧める。藍はしばらくなにごとか考えていたが、やがて盃を手に取った。
「はい。……銀生さん」
 言いにくそうに、しかしはっきりと名を口にする。
 またまた、高度なワザを。銀生は心の中で苦笑した。
「失礼いたします」
 声とともに、襖がするりと開く。仲居が料理を運んできた。先刻、注文した品が次々と膳に並ぶ。
 さあて。このあとこの人は、どんな顔を見せてくれるのだろう。もっとも、アノ顔はもう少しお預けにするつもりだけどね。
 とにかく今日は、この人をここに釘付けにしておかなくては。来る道々に「視た」ところでは、どうやら碧は昏の家に入り込めたらしいから。
 まーったく、反応が早くていいよ。昼にちょっと話を振っただけで、もう昏のところに押しかけてるんだから。
 あーゆー「天然」なのもかわいいねえ。なんでもこっちの言うこと聞いてくれそうだし、明るいし。でも、ま、あれはあいつに譲ってやんなくちゃ。でないと俺、マジで一生、あいつのお守りで終わりそうだもんねー。
「伺っても、よろしいですか」
 表面的にはきわめて控え目に、藍が話しかけてきた。
「はいはい。なんですか?」
 若鮎の天ぷらに箸をつけつつ、答える。
「あなたは、どういう経緯で碧の上官を拝命なさったのですか」
 へーえ。意外と直球なのね。
 まあ、ファーストネームで呼び合うという合意ができたあとだから、こーゆーのもアリだろう。碧が「弱み」であることを、この人は武器にするつもりかもしれない。
「うーん。経緯と言われましてもねえ」
 もぐもぐと天ぷらを咀嚼する。やっぱ、旨いねえ。若鮎の味もさることながら、さくさくっとした衣がたまらない。ごくりと嚥下して、
「俺、ずーっと昏の監視役でしたから」
 こっちも核心を口にする。ある程度、手の内を見せないとね。
「監視役?」
「例の昏一族の事件のとき、俺、現場に派遣されたんですよ」
「え、でも、あれは十六年も前の……」
「そ。あれが俺の、初仕事でした」
 御影研究所から、いきなり御影本部に招集されて。
『おまえにしか、できない仕事だ』
 そう言われた。長い黒髪と漆黒の眼のあの人に。
『頼むよ、銀生』
 掴まれた肩から、温かいものが流れ込んだ。真摯な思い。偽りのない澄んだ心。
 「鬼」の力を使わなくても、すぐにわかった。この人は自分を求めている。まっすぐに、正直に。だから。
 応えようと思った。自分にできることならば、と。そして、昏一族の村に入ったのだ。当時の御影長と、その「対」であったあの人とともに。
「しょっぱなから、えらーくキツイ仕事でしたけどねー。まあ、なんとかやり終えて、そのあとすぐに昏を見張るように言われたんですよ」
 たったひとり生き残った「昏」の純粋血統。その血を絶やさぬため、いわば「雑種」である自分が宛てがわれた。万一の場合、被害を最小限に抑えるために。
 昏の首に施された印は、「昏」の血に反応する可能性がある。とすれば、その印を発動させた場合、何分の一かでも「昏」の血の入っている自分にも作用するかもしれない。
「それは……たいへんでしたね」
 しみじみと藍が言った。心底、同情したように。
 ほーんと、あんたは最高の「手」だよ。銀生は箸を置いた。
「あー、なーんか、しめっぽくなっちゃいましたねー」
 ことさら明るく、続ける。
「ま、もう一杯どうです?」
「そうですね。では……」
 藍はふたたび、盃を受けた。それを飲み干したのを見てから、銀生は手を打った。
「おねえさーん、お酒、じゃんじゃん持ってきて〜」
「銀生さん……」
 困惑した顔。頬にはほんのりと朱が入っている。
 うわあ。ワザとでもいいよ。
 下腹に沸き起こる熱をなんとか抑えて、銀生はにっこりと笑った。
「今夜は、帰しませんからね」
 お約束のセリフを言うと、藍は拗ねたような表情で横を向いた。
 はいはい。たーっぷり計算してね。いまは、碧のことなんか考えないで。
 夜は、まだ始まったばかりであった。


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