禍事〜まがごと〜 




ACT2
(『今、ここに在ること』ACT9対応)

 本当は、もう碧を「研修」になど遣りたくなかった。
 忌むべき血を引く「昏」と、部下の未来をゲームの駒のように弄ぶ男。そんなやつらに碧を預けるのは、どうしても我慢できない。だが。
 特務三課については、御門の勅命である。その人事にうかつに口をはさむのは、きわめて危険だ。
 碧を特務三課から引き離すには、どうすればいいか。藍はいくつかの方法を考えた。
 ひとつは、軍務省の上層部に手を回すこと。
 むろん表立っては動けないが、御門の「手」として過去幾多の任務をこなしてきた経験から、上層部の何人かの弱みは握っている。それらをうまく操作すれば、碧をだれかほかの御影の「対」とすることもできるだろう。
 いちばん確実なのは軍務省長官の通称「冠」に働きかけることだが、さすがにそれは難しい。外堀から順々に埋めていければいいのだが。
 もうひとつは、あの銀生とかいう男を排除すること。
 先日、漏れ聞いたところでは、あの男に上官としての資質が備わっているとはとても思えない。
『嫌だったら潰す。それでいいじゃない』
『手足の二、三本もへし折って、本当に使えなくすればいい』
 どういういきさつで、あんな男が「昏」や特務三課と関わるようになったのだろうか。おそらく相当実力のある「御影」だろうが、あのような非常識な輩に碧の今後を託すわけにはいかない。
 あとひとつは、碧自身に「昏」と対を組むのを辞退させること。
 いくら碧でも、昏一族の惨劇とその後の経緯を知れば、考えを改めるだろう。「水鏡」になって稼ぐというのが碧の目標であって、「対」はだれでもいいはずだ。
 これがもっとも簡単な手段のように思われるが、その場合、自分は機密漏洩罪に問われるおそれがある。軍法会議にかけられ、軽くて官位剥奪と禁錮刑、悪くすると私財没収のうえ流刑だ。そんなことになっては元も子もないので、碧に情報を流すときには細心の注意を払わねばなるまい。
 いずれにせよ、上層部を押さえる必要がある。
 藍は「手」を拝命して以来の人脈を駆使して、根回しにかかった。


 数日後。
 ひと気のなくなった総務部の一室で、藍は資料をにらみつけていた。
 もう少し簡単に、事が進むと思っていたのに。眉間にしわを刻んで、ため息をつく。
 特務三課に関しては徹底した情報管制がなされているようで、軍務省の高官も内務省や中書省の役人も、これといって確実な情報を持ってはいなかった。
 はっきりしているのは、昏一族が関わっているということ。それは皆、薄々承知しているらしく、ことさらその話題に触れないようにしているのかもしれないが。
『盲(めしい)たか、藍』
 護国寺の宿坊で、その人物は冷ややかな笑みを浮かべて言った。桐野篝。桐野玄舟の従兄弟にあたる男である。
『たしかに私もおまえも桐野の血を引く身だが、だからといって私がおまえの望む答えを与えるとは限るまい』
 しゃらん、と、錫杖が鳴る。長い黒髪がさらりと流れた。
『真実を欲するなら、おのが力で得るがいい』
 言い捨てて、房を辞す。
 父亡きいま、藍にとってただひとりの血縁であり、前の御影長の「対」であった男。彼ならば御影本部の内情にも詳しいだろうと思って護国寺まで出向いたのだが、収穫はゼロだった。
 外堀を埋める作戦はついえた。次の策は。
 資料を引き出しに戻す。ほんの数行の身上書。特務三課の課長に内定している男の。
 社銀生。二十六歳(推定)。十歳で「御影」の宣旨を受け、以来十五年あまりに渡ってトップクラスを維持。ただし、水鏡と組んだことはなし。
 ずっと、単独で御影の任務をこなしてきたのか。これはかなりの曲者だ。「対」となっても、お互いに波長が合わなかったり相手が殉職したりして、一定期間、単独で任務を遂行する場合はあるが、まるっきりひとりで御影と水鏡をこなす者は少ない。
 いったい、どんな生い立ちの男なのだろう。本人に直接会う前になるべく多くの情報を仕入れようと、あれこれ探ってみたのだが、身上書に書かれている内容以上のものは、どこからも出てこなかった。
 十の年から御影として働いていることからして、早熟の天才であるのは間違いない。「対」を組まなかったのも、その天才ゆえに同調できる相手がいなかったのだろう。
 概して、天才には情緒面での欠陥がある。そのあたりに、付け入る隙があるはずだ。問題は、どうやって接触するか。むろん、碧の上司になる予定の人物なのだから、兄として挨拶に行くという手もあるが、なにやらわざとらしくていただけない。もっと、自然な感じで近づく方法はないものか。
 今日にでも、もう少し銀生という男の人となりを碧に聞いてみよう。訓練の話のついでに水を向ければ、いろいろしゃべってくれるはずだから。
 身内に対するあの警戒感のなさはエージェントとしては致命的だが、この際それには目をつむろう。この件が片付いたら、一から仕込み直せばいい。御影本部で十分やっていけるように。
 そうだとも。いざとなれば、碧を「御影」に転向させて自分が水鏡を勤めてもいい。昨年あたりから、御影本部にも「手」を常駐させる案が出ていることでもあるし……。
「もうカンバンですよ〜」
 閑散とした参謀室のオフィスに、間延びした声が響いた。
「経理課から文句言われちゃいますよ。私用で居残ってちゃ」
 長身の男が、だらしなく扉にもたれてこちらを見ていた。
 なぜだ。なぜ、この男がここにいる。
「あー、そーんなににらまないでくださいよー。俺、社銀生って言います。一応、来期から特務三課の課長ってことになってんですけど……ええと、碧から聞いてません?」
「ええ」
 特務三課の人事については、機密事項である。ゆえに建て前として、自分はそれを知る立場にはない。
「存じません」
「へーえ、そう」
 切れ長の目が、きれいに細められた。
「じゃ、あんた、なんで俺のこと調べてんのよ」
 唇が弧を描く。
「護国寺まで行ったみたいだけど」
 そんなことまで、知っているのか。藍は唇を結んだ。銀生はデスクの横に歩を進め、
「そんな手間かけなくても、聞きたいことがあれば言ってくださいよ」
 するりと肩に手を回す。
「あんたみたいな美人の質問なら、なーんでも答えちゃいますよ」
 なるほど。そういうことか。
 この男の欠陥。あまりにも、俗物的なそれ。
「なんなら、場所替えます?」
「いいえ」
 さらりと手を払う。
「では、伺いますが」
「はい?」
「あなたは、碧を潰すつもりですか」
 直球を投げる。こんな輩に、遠回しな言い方をする必要はない。
「だったら、どうします」
 薄い笑いを浮かべたままの顔。
 最低だ。
 憤怒のオーラを、あらんかぎりの意志で封じる。いま、それを爆発させてはいけない。対峙すべき相手は、この男だけではないのだ。「昏」の動きを制しなければ、碧を取り戻すことはできない。
「それは……困りますね」
 弱みを、わざと見せた。思った通り、目の前の男はさらに目尻を下げた。
「そうですか。困りますか」
「はい」
 さあ。どう出る。
 喰らい付いてくれば、よし。そうでなくても、これからの道筋は読めた。この男を取り込む方法。それは……。
「じゃあ、とりあえず……」
 あごを掴まれた。唇に、熱。
 反射的に、手が動いた。頸動脈に切っ先を宛てる。
「あらら」
 唇をわずかにはなして、銀生は言った。
「けっこうなお手前で」
 小柄を喉に受けつつ、のんびりと続ける。
「やっぱ、場所、替えましょうよ〜。それとも、ここに結界、張ります?」
 冗談ではない。仮にも軍務省の官舎である。それに、碧に一言もなく外泊するわけにはいかないではないか。
「いいえ」
 再び、同じ言葉を返す。
「今日は、差し支えがありますので」
「うーん、そりゃ、残念ですねえ」
 すっと身を引き、
「じゃ、あしたってことで」
 片目をつむって、手を挙げる。
「晩飯、おごりますよ〜。北町通りの『吉膳』って店で。いいですよね?」
「はい」
 吉膳、か。たしか奥には、泊まり座敷もあったな。
 頭の中で、いろいろな場面がシミュレートされていく。
「では、あした」
 藍はきっちりと礼をして、その場を辞した。


 外はもう、星空に包まれていた。
 ずいぶん遅くなってしまった。きっと碧は、腹をすかせているだろう。たまには餃子でも買って帰ってやるか。
 そんなことを考えて、藍は商店街へと向かった。


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