禍事〜まがごと〜 ACT1(『今、ここに在ること』ACT8対応) なぜだ。なぜ、よりによって「昏」なのだ。 和の国のトップシークレット。最も重要にして最も危険な「昏」の血を引くあの男と、なにゆえに碧が「対」など組まねばならないのか。 おれは認めない。たとえそれが、勅命であったとしても。 金髪碧眼の容姿に生まれたというだけで、周囲から疎まれ、蔑まれて育った碧。桐野家に来るまでは、名前さえ与えられなかったという。 『へき? と(そ)れ、なに?』 まだよく回らない口で不思議そうに訊いてきた。名前というものの概念を教えるだけで、何時間もかかった。あれから、もう八年たつ。 なにか方法はあるはずだ。これまでも自分は、あらゆる手段を用いて碧に仇なすものを排除してきたのだから。 その日。 桐野藍は一身上の都合で欠勤した。 「おや、桐野くん。今日は休みだったのでは?」 総務部参謀室長の伊能元就が、ずれかけた眼鏡を直しながら言った。 「おはようございます、伊能室長」 特務課の資料をほかの資料の間に隠し、藍は30度の礼をした。 「財団の関係で抜けられない用事ができたのですが、明日までに仕上げなければいけない書類があったことを思い出しまして。持ち帰って、今夜にでもやろうかと……」 父の死後、藍は桐野財団の総帥でもある。 「ああ、淮の国の境界線の件か。あれは来週でもかまわんよ」 伊能は予定表を見ながら、そう言った。 「淮の評議会がだいぶ譲歩してきたようだからねえ」 「それはよろしゅうございました。ご苦労の甲斐がありましたね」 実際に苦労をしたのは現場の者たちだが、それはひとまず脇に置く。 「なに。先方とて、いつまでもゴネるつもりはなかっただろうよ」 「東原五洲」と呼ばれる大国のひとつである和の国と真っ向から事を構えても、淮の国に利があるとは思えない。 「そろそろ頃合と見て、折れてきたわけですか」 「まあ、そんなところだ」 伊能の機嫌は悪くない。探りを入れてみるか。 「それを伺って安心しました。これ以上こじれると、特務一課に応援を頼まねばならないと思っていましたから……」 そこまで言って、いま気づいたように語を繋ぐ。 「ああ、そういえば、特務三課の設立は本決まりになったんですか?」 じつはすでに、九代目御門の内示が出ている。が、それはまだ、上層部でも少数が知るのみで、本来なら一介の書記官である自分が知りうる情報ではない。 藍は、御門の「手」だった。学び舎を飛び級で卒業したとき、御影行きを固辞する交換条件として、九代目直属の密偵となる道を選んだ。それもこれも皆、碧のためだ。 外見だけでも相当目立つのに、それ以上に碧はその行動と言動で周囲を引っかき回していた。桐野の家の中だけならいいが、いずれ社会に出たときには、そういう奔放な振る舞いはマイナスになる。 ここは自分が、しっかりと教育しなくては。そう思って都に留まった。そしていままで、ずっと碧を見守ってきたのだ。 その碧が、この春、学び舎を卒業した。が、配属が決まらぬまま一カ月が過ぎ、そろそろなにか手を打たねばと思っていた矢先に、今回の「研修」名目の招集がかかった。 どういうことなのだろう。上層部はなにを考えているのか。 それとなく調べてみたが、件の「研修」に関する資料はどこにもなく、藍は碧がだれとどのような訓練を行なっているか、まったく知らなかったのだ。今朝までは。 相手は「昏」。上司の名は「銀生」。そして、配属予定の部署は特務三課。 もっと早くに、聞き出しておけばよかった。碧ならば、機密だろうがなんだろうが、ちょっと話を振っただけですらすらとしゃべっただろうに。 「特務三課? ああ、あれねえ」 伊能はちらりとあたりを見遣って、小声で続けた。 「経理課から予算の無駄遣いだと文句が出ているようだが、来期発足は間違いないだろう。なにしろ九代さまのお声がかりだからね」 「え、そうだったんですか?」 さも驚いたように、言う。 即位以来、数々の改革を断行してきた九代目が、いまいちばん力を入れているのが、御影出張所ともいうべき特務三課の設立だ。じつのところ、藍にはそれにメリットがあるとは思えなかったが、これまで次々と新しい発想で各部の再編を行なってきた九代目のこと。きっとなにか深い考えがあるのだろう。 デスクの向こうから、参謀室の職員が伊能を呼んだ。伊能はそれに軽く手を上げて答え、 「まあ、そういうわけで、淮の件は急がなくてもいいから」 「わかりました。では」 きっちりと頭を下げて、藍は伊能を見送った。 盗み見た特務課の資料。そこには、三課についてはわずかな情報しか載っていなかった。 それはそうだろう。本来、文字通り「影」であるはずの御影を表の部署に配置するなど、おおっぴらにできることではない。おそらく、三課が発足しても、その実体を知るのは御門をはじめ軍務省のごく一部に限られるはず。 そんな不安定な部署に、碧を遣るわけにはいかない。 上がなにを考えているのかは、おおよそ想像はつく。碧の外見とふだんの行状からして、一般の部署ではうまく適応しないと判断したのだ。それはある意味、事実である。だからこそ、あえて自分は、碧が危険な仕事の多い御影へ進むことを許した。 御影本部には、碧にとっては義兄にあたる斎がいる。ここ何年も音信不通だが、毎月、桐野財団に送金してくれていて、その金額から推測するに相当の働きをしていると思われた。その斎のいる所なら、まだ安心だ。そう思っていたのに。 どこかに、特務三課の詳細を記したものはないだろうか。それとなく各部に当たってみたが、めぼしい収穫はなかった。城の奥殿の文庫に行けば、あるいはと思ったが、表向きは休暇の身である。城内をうろうろしていて、見咎められるのはまずい。 仕方なく藍は、近々取り壊し予定の独身寮に足を向けた。そこはもう一年以上無人の状態だったが、件の資料によれば、特務三課のオフィスはその独身寮の集会室を改装して作られる予定らしい。 古ぼけた壁。埃だらけの室内。隅にある簡易キッチンには、カップラーメンの食べ残しや丼や湯呑み、割箸や茶がらなどが散乱していた。デスクの上の灰皿には吸殻の山、ゴミ箱からは菓子の袋やら包み紙やら書き損じの書類がはみだしている。 学び舎の学生寮でも、これよりはマシだぞ。 藍は大きくため息をついて、集会室を出た。 どうやら銀生という男は、部下をしつけようという気はまったくないらしい。上に立つ者として、それでは失格だ。 碧は今日も訓練があると言っていた。とすれば、演習場だろうか。この旧独身寮には、自主トレのために演習場が併設されている。 外廊下をぐるりと回って、裏手にある演習場に向かう。生い茂った木立ちの中を進んでいくと、ある場所で急に息苦しさを感じた。 強固な防御結界。攻撃結界に匹敵するほどの。 藍はもともと、水鏡候補だった。学び舎にいたころは「桐野の神童」と異名をとったほどで、飛び級で卒業したときも、皆がそのまま御影の宣旨を受けて水鏡になると信じて疑わなかった。その藍が、病気がちな父親の補佐をするという名目で都に残ったとき、意地の悪い一部の者たちは、結局は「桐野」の名の通用するところでしか働けない頭でっかちのお坊ちゃんだと陰口をたたいた。 言いたいやつには、言わせておけばいい。過少評価をされた方が、かえって「手」としては動きやすい。 藍はそう考えて、その後数年間、地道に「手」としての職務を果たしてきた。だが。 今回ばかりは、そんな真似をしていられない。見定めなければ。碧がいま、どんな状況に置かれているのかを。そして必ず、碧を取り戻してみせる。 結界の中に踏み込むのは、わけはない。ただ、相手に気づかれぬようにしなくては。 演習場全体に薄く広く張られている防御結界。「昏」だろうか。こんなに均一に、非の打ち所のない結界を張る力を持っているのは。 波長を探る。定期的に何通りか違う波長が組み合わさって、ひとつの結界を形成している。 厄介だな、これは。結界内に入り込めたとしても、そう長いあいだ、こちらの気配を隠しておくのは難しそうだ。 外から念を飛ばす。碧はどこだろう。同調率を高めて、「気」を追う。 ……あった。やたらと元気で、開放的なそれ。 どうやら、訓練が一段落ついたらしい。碧は「はら減っちゃった」と言って、演習場を出ていった。いつもながら、唐突なやつだ。あとに残ったのは、ふたつの人影。なにごとか言い合いをしているようだ。そのとき。 ふいに、結界が緩んだ。なんだ。ワナか? しばし、躊躇する。が、その意味を考えるより先に足が動いていた。自身に張った遮蔽結界を厚くして、歩を進める。植え込みの陰から声のする方を見遣ると、碧と同い年ぐらいの黒髪の少年が、もうひとりの長身の男をにらみつけているところだった。 「できるか」 吐き出すように、言う。あれが「昏」。今回の件の、元凶。 「どうしてー? たかが『水鏡』候補でしょ」 長身の男が、愉快そうに言った。あれが「銀生」か? 「『体術』なんてメンドクサイことしてないで、手っ取り早く潰しちゃえばいいじゃない。簡単でしょ?」 「おまえと一緒にするな」 「『嫌』だったら潰す。それでいいじゃない。おまえ、大義名分にこだわりすぎよ。手足の二、三本もへし折って、本当に使えなくすればいい。生ぬるいのよ」 なんだと? この男は、仮にも自分の部下になるかもしれない人間を、「昏」の贄にするというのか。 許せない。 感情が抑えられなかった。遮蔽結界が歪む。 「だれだ!」 振り向きざまに衝撃波を投げられた。しまった。「気」が漏れたか。 瞬時に移動する。続けて攻撃されるかと思ったが、なぜかそれはなかった。 数秒後、藍は演習場の結界の外に脱出していた。 なんとかしなくては。自宅に戻る道すがら、藍はあらためてそう思った。 なんとか、しなくては。唇をぎゅっと結ぶ。 そうだとも。きっと見つけてみせる。 碧を、この禍事から救い出す道を。 夕焼けが、いやに赤々とあたりを染めていた。 『今、ここに在ること』ACT8へ |