禍事〜まがごと〜 ACT10(二十五話以降対応) 東の空が、ほんのりと白んできた。まもなく夜明けだ。 藍は護国寺の法堂の裏手にある滝にいた。滝行である。 初夏とはいえ、都の北方の山岳地帯にある護国寺。滝の水は身を切る冷たさだ。 あの日。社銀生が「昏」であると聞いた日から、藍は護国寺に伝わるありとあらゆる行をその身に課した。 「あれ」が昏の血を引くものであるのなら。 これまでのことは、すべて徒労であった。まったくの道化芝居。空回りも甚だしい。 おそらくあの男には、こちらの思惑など手にとるようにわかっていたのだろう。だから、褥の上に進んだときも、事が成らなかった。 無様な真似をした。悔しい、などという言葉では表現できないほどに。 滝の水が針のように降り注ぐ。このままでは、自分は永久に碧の側へは辿り着けない。「昏」ふたりを相手に、いったいどうすれば……。 碧の笑顔が遠ざかっていく。 ひたすらに経文を唱えつつ、藍はその場に座り続けた。 護国寺には、九日九行(くじつくぎょう)と呼ばれる行がある。 護国寺の法堂を中心として、八ヶ所に点在する伽藍を日の入りから日の出までに回って経を納める。それを九夜、続けるのだ。もちろん、そのあいだ、ふだん通りの務めもこなさねばならない。実質、九日間の不眠不休の行であった。 「九日の行を行なうは、僧門に入りたる者でもごくわずか。それを承知のうえだろうな」 行の申告をした藍に、篝は言った。 「本来なら、かような申し入れは即刻却下するのだが、こたびは諸々の事情を鑑みて特別に相許す。のちほど、上人さまに御礼言上に参じるように」 「え……」 上人さまに? 藍は驚いて顔を上げた。 「くれぐれも、失礼のなきよう」 重々しく、篝。 そんなことはわかっている。が、世間一般の礼儀とここでのそれはまったく違うのだ。 「よいな」 さらに念を押された。 「はい」 短く答えて、頭を下げる。 慧林上人。それは護国寺の大僧正にして、和王九代目御門の幼年時代の師である。 藍はいままで習得してきた作法のあれこれを必死で思い出していた。 御礼言上。と、いうことは。 いわゆる部外者の自分が九日九行の上申をしたことに関して、慧林上人がなにかしらの示唆をしたことを意味する。篝はそのあたりに関して、詳しい説明をしなかったが。 藍は、高位の僧が寝起きする雲殿と呼ばれる堂に上がった。取り次ぎの僧に来意を告げる。これにもまた護国寺独自の言い回しや決まりがあり、わかりきったことを何度も問答のように言い続けなければならない。 ようやくそのやりとりを終え、堂に入る。が、すぐに上人と会えるわけではない。廊下の端に控えて待つことさらに四半時ばかり。雲殿の雑用をしている僧が大きな鉢を手にやってきた。それには水が張ってあり、底には経文が書かれてある。 「伏頭を」 これも護国寺独自の作法だった。顔を水につけることによって、邪心のないことを示す。もしそのまま首を押さえ込まれたら、死ぬこともありうるのだから。 藍は顔を伏せた。水の中で経文が揺れている。 「なべて宜(よ)し」 僧が了解の意味を表わす言葉を言い、練り布を差し出す。藍はそれで顔を拭いた。鉢が引かれる。横から別の僧が、房の中に入るよう促した。 香の焚きしめられた室内には、あざやかな黄蘗色の法衣をまとった老人が、ゆっくりと書をしたためていた。下座に平伏して、その筆が止まるのを待つ。 ことり。 かすかな音とともに筆が置かれ、側仕えの僧によって文机が引かれた。 「『桐野の神童』」 音としてはごく小さいはずだが、その声は十間ばかり離れた場所にいた藍にもはっきりと届いた。 「……と、呼ばれていたと聞く」 護国寺の頂点に立つ大僧正、慧林上人は言った。なんと返答すればいいのかわからず、藍はただ額づいていた。 「御身は、神童とはいかなるものを指すか存じおるか」 神童。才知の優れた子供。幼年の天才とでも言おうか。が、いま訊かれているのは、そんな単純な言葉の定義ではあるまい。 「存じませぬ」 伏したまま、答えた。 「そうか。知らぬか」 たいそう深い声音。しばらくの沈黙が流れた。 もうよいだろうか。用意してきた御礼の言葉を口にしても。空気がなかなか読めず、藍はそろそろと上座を窺った。と、そのとき。 「これを、御身に」 慧林上人は、一枚の書を差し出した。側仕えの僧がそれを角盆に乗せて、藍の面前に運ぶ。 『天不知人 人不知天』 力強く勢いのある手蹟だった。 「天命は、人の与り知らぬところで決まるもの。ゆめゆめ、知ろうと思うてはならぬ」 「……はい」 含みのある言葉に、藍はそう答えるしかなかった。 あれで「御礼言上」といえるのかどうか、多分に疑問であったが、藍は翌日から九日の行に入った。 昼間は通常の務めを果たし、その後、夜を徹して伽藍を回る。深夜の山路は見通しも悪く、さらに雨など降ろうものなら、道が急流のようになって一歩進むにも難儀だったが、朝の務めが始まるまでにすべての伽藍に経を納めねばならない。 心身ともに極限に近い状態になりながら、藍はその行を続けた。そして、なんとか無事に八日が過ぎて。 九日目の夜は、水無月にしては異様に気温が低かった。 前日雷雨の中を明け方まで歩き続け、冷えた体を温める間もなく昼の日課をこなし、そのまま再び夜を迎えた。皆が就寝したあと、臥寮と呼ばれる宿舎を出る。発熱していることは、わかっていた。が、この行のあいだは、水と粥と味噌のほかは口にできない。薬の類を飲めば、そこで行は終了する。 中途で行を終えることは、護国寺ではもっとも不名誉なこととされていた。たとえどんな小さな行であれ、それは破戒に近い意味を持つ。 法堂から第一の伽藍に向かう道で、藍は視界が白く濁るのを感じた。 霧が出てきたか。さもあらん。急激に気温が下がっているのだから。 闇の色が微妙に変わっていく。震える手足に力をこめて、歩を進めた。 第一の伽藍に経を納める。作法通りに拝礼してそこを辞し、次を目指した。霧はさらに濃くなって、右も左もわからなくなった。 「気」を高めて、あたりを探る。第二の伽藍の方向は……。 すでにもう八回も同じ道を歩いているのだ。多少、視界が悪くても、体がルートを覚えているはずだ。 藍はおのれの記憶を頼りに歩き出した。 古来、この道を歩いた者たちは、なにを考えていたのだろう。あるいは、なにを求めていたのだろう。 苦しみの果てにあるなにか。それは自らを納得させるものだっただろうか。 まとわりつく霧が、妙に重く感じた。湿気を含んだ髪さえも重い。いっそ切ってしまおうか。そう思ったとき。 『藍にーちゃんのばかーっ』 幼いころの碧の声が脳裡に響いた。 馬鹿、か。 そうだな。たかがこれしきのことで。 藍は濡れた髪をきっちりと結び直し、再度「気」を集中させた。 天は人を知らず。人は天を知らず。 たしかにそうだ。天命のなんたるかなど、知らなくていい。その天さえも、人が為しうるすべてを知りえないはずなのだから。 急激な発熱により、五感のほとんどが働かぬ状態にありながら、藍はその日、九日の行を完遂した。 『今、ここに在ること』ACT25へ |