本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT4 昏のささやかな幸福

 昏の意識が戻ったのは、翌々日の午後遅くなってからだった。
「もう少し迅速に事を運んでいれば、夏氏の亡命も未然に防げただろうに」
 点滴の早さを調節しながら、藍は言った。ちなみに、藍は医師の資格も持っている。
「わずか半日のことで、このありさまか」
 昏は目を閉じている。といっても、眠っているわけではない。小言をまともに聞くのがいやなのだろう。そんなことはわかっていたが、だからといって簡単に許してやる気は藍にはなかった。
 あんなに碧を心配させて。
 ふた晩、一睡もせずに付き添い、今日も一時間ばかり前まではここにいた。医師から生命に別状はないと言われても、なかなか信じようとしなかったのだ。さすがに疲労の色が濃くなったので、いまは別室で休ませている。
「学び舎の主席も形無しだな」
 ぱちりと目が開いた。悔しそうな顔。
 これぐらいで感情を顕にしてどうする。仮にも「御影」の宣旨を受けた者が。
「そう言われたくなければ、次からはもっと気をつけろ」
「……そのつもりだ」
 やっと聞き取れるぐらいの、低い声。
「『わかりました』だ。上官に対する口にききかたも忘れたのか」
 さらに語を繋げようとしたところに、ばんっ!と派手な音がした。
「昏っ!!」
 碧だった。もう起きたのか。少なくともあと二、三時間は眠っていると思っていたのに。
「いま、おまえが目を覚ましたって聞いて……大丈夫か、昏。ごめん。おれのせいで……」
 枕元に駆け寄って、言う。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「お前のせいではない」
 淡々と、昏。
「俺が敵の力を見誤っただけだ」
「でも、おまえが引き上げようって言ったときに、すぐ城を出ていたらこんなことには……」
「うるさい」
「なっ……なんだよー。せっかく人が謝ってんのに……」
「謝るぐらいなら、バカな真似はするな」
「あのなあっ」
「碧」
 頃合いを見て、藍は風呂敷包みを差し出した。
「へっ……なに? これ」
 空色の目をまん丸にして、碧が言った。
「弁当だ。おまえ、おとといからほとんど食べてないだろう」
 本当はここに来たときに渡したかったのだが、さっきまではそれどころではなかった。碧は昏の枕辺にすわったまま、微動だにしなかったのだ。あの状態では、たとえ食べてもすぐに吐いていただろう。
「銀生さんも心配してたぞ。それ食ったら、今日は帰れ。昏は、もう大丈夫だから」
「……藍にーちゃん」
 包みを手に、碧は唇を震わせた。昏がじろりとこちらをにらんでいたが、それ は頭から無視した。
「うんっ。食べるよ。にーちゃんに弁当作ってもらうのって、すっげえ久しぶりだよなっ」
 たしかに、そうだ。碧がこのベッドに寝ている男と暮らすようになってから、めったに食事も一緒にできなくなってしまった。
「いっただきまーすっ。あ、卵焼きだ。ねえねえ、これ、砂糖入ってる?」
「もちろん、入ってるぞ。おまえ、甘いのが好きだっただろ」
「そうそう。覚えててくれたんだー」
 ほくほくとした顔で卵焼きを口に運ぶ。昏はベッドの上から、憮然とした顔でそれを見つめていた。
 そして、約七分後。
「ごっそーさんっ」
 顔の前でばちっと手を合わせ、碧は箸を置いた。
「はーっ。生き返ったよー」
「もういいか? リンゴもむいてきたぞ」
「もうお腹いっぱいだよ。あ、でも、一個だけもらおっかなー」
 さっと手をのばして、リンゴをひと切れつまむ。シャリシャリとそれを食べ、
「今度こそほんとーに、ごっそーさんっ」
 ふたたび手を合わしてから、ちらりとベッドの方を見遣った。
「あ、わりィ。おれ、全部食っちまった」
 ばつが悪そうに、頭をかく。
「リンゴ、食う?」
「お前……」
 昏は苦笑した。
「あ、やっぱ、ダメだよな。ごめん、なんか買ってくる」
 立ちあがろうとした碧の手を、昏が掴んだ。
「いい」
「え、でも……」
「まだ、医者の許可が下りてない」
「許可?」
 昏の怪我は、外から見たかぎりは軽傷だったが、内蔵のダメージがかなり大きかった。ひと通りの検査をした上でなければ、常食は摂れない。
「……そんなに、ひどかったのか」
 しゅんとして、碧は下を向いた。
 せっかく元気になっていたものを、また余計なことを言って。藍は昏を横目で見た。その視線に気づいたのか、昏は碧の腕を引いた。
「二、三日で退院する」
「昏……」
「その日は、お前が飯を作れ」
「え、でも、おれ、ラーメンしか作れねえよ」
 それも、湯を注ぐだけのインスタントラーメンだ。
「それでいい。ただし……」
「たっ……ただし??」
 異様にビクついている。昏のやつ、ここでなにか無体なことでも言ったら、未来永劫、医療棟に拘束だぞ。
 藍がひそかに私情に走っていると、昏はにやりと口の端を持ち上げた。
「『麺一番・あっさり鶏ガラしょうゆ』にしてくれ」
 びしっと商品名を指定する。碧はなにやら、ほっとした様子で頷いた。
「『麺一番・あっさりしょうゆ』だな」
「『麺一番・あっさり鶏ガラしょうゆ』だ」
 細かい。このあたり、銀生といい勝負である。
「わかったっ。帰りに買っとくから」
 にかっと笑って、碧は上体をかがめた。
「……!」
 小さな音がして、ふたりの唇が触れ合った。それは、ほんの一瞬のこと。昏の表情が途端に至福のものとなった。
「じゃあなっ。あした、また来る」
 照れ隠しのようにぶんぶんと手を振って、碧は病室を出ていった。それを見送って、
「……無理だと思うが」
 ぼそり、と藍。昏は眉をひそめた。
「なにが」
「検査と治療に、最低一週間はかかるぞ」
 二、三日で退院などと、ぬか喜びをさせて。
「三日もあれば、十分だ」
「勝手に決めるな」
「治療は、通院で事足りる」
 なんとも頑固だ。そんなに早く碧のもとに帰りたいのか。藍はため息をついた。
「何日で退院しようとおまえの勝手だが、万全の体調になるまでは自宅療養だぞ」
「わかっている」
「その場合、当然ながらあいつは単独任務につくことになるな」
 昏の顔色がわずかに変わる。
「それがいやなら、完全に治してから退院しろ」
「しかし……」
「おまえが医療棟にいるあいだは、碧も内勤だけにしてやる」
 それぐらいの操作はできる。万一のときには、自分が外の任務を受ければいいのだ。
「……ご配慮、いたみいります」
「よろしい。治療に専念するように」
「承知」
 今日のところはこれぐらいで許してやるか。藍はゆっくりと席をたった。

◆ACT3と4は、昏×碧ルートでの連動作があります◆→GO!