本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT5 銀生、留守番する

「もう〜、藍さんったら。遅かったじゃないですかー」
 藍がオフィスに戻ると、銀生が泣きそうな顔をして出迎えた。
 仮にも課長。三課を束ねる地位にあるくせに、なにをそんなにうろたえているのだ。そう言いたいのをぐっとこらえ、藍は頭を下げた。
「すみません。で、なにか動きでも?」
「さっきから、鬼塚や錦織がひっきりなしに夏氏のやつらの情報を持ってきてまして」
「亡命してきた王族のことですね。受け入れ先が決まったんですか」
「それがねえ、あれ、ダミーだったみたいで」
「はあ?」
 銀生の話では、西呂の砦に逃亡してきた王族を名乗る者たちが、朝餉の席で次々と自爆したらしい。当然、その場にいた和の国の者たちも何人かが巻き添えになり、命を落とした。
「事が事なんで、御影研究所の医者が屍体を検分したんですがね。みーんな莫の民だったそうで」
 御影研究所というのは御影本部直属の研究機関で、公には認められていない武器や薬の開発もしている。
「そんなことが、どうしていままでわからなかったんです」
 考えてみれば、不思議だ。亡命を求めて西呂にやってきた者たちを、なにゆえ簡単に夏氏の王族だと信じてしまったのか。
「あんたも知っての通り、夏氏の王族ってのは、いわば神サマですからね。民の前に姿を現わすのは年に一度しかないし、それだってはっきり顔が見えるわけじゃない。ぶっちゃけた話、城勤めの人間だって、王族の顔を知ってるのはほんのひと握りに過ぎないんです」
 それを、莫の者たちは利用したのか。
 和の国から工作員が潜入していることを悟った莫側は、「夏氏の王族」を亡命させることによって工作員の撤退を図ったのだ。結果、それは成功した。とすれば、いま、本当の夏氏の王族は莫の国に連行されているかもしれない。
「……見事にやられましたね」
「まったくです。錦織が口から火を噴きそうな勢いで怒ってましたよ」
 さもありなん。「亡命」の第一報は、錦織の部下である春日らよってもたらされたのだから。
「それで、冠さまはなんと」
「今度は、莫本国まで行けって。こうなった以上、夏氏のやつらをかっぱらってきて、対莫の国戦略に利用するつもりみたいですよ」
 穏健派の冠が、そこまで腹を決めたか。
「……わかりました。おれが行きます」
 藍は宣言した。
「えーっ、どうして。俺が行きますよ。莫方面は俺の方が慣れてるし」
 たしかに、そうだ。いままで銀生は西方の莫の国や台の国、あるいは北の冰の国や朔の国での任務が多かった。対して藍は、宗の国や槐の国、江の国といった東方の任務経験が多い。
「いいえ。今回は、おれに行かせてください。昏はまだ動けませんし、碧ひとりではこの仕事はムリです。それに……」
 ひとつ間違えば莫の国との全面戦争。各部の長は本国にいた方がいい。
「……わかりましたよーだ」
 思いっきり不本意そうな顔をして、銀生は言った。
「おとなしく留守番してますよ。でも、万一のときは……いいですね」
 特務三課は、司令系統から離れて単独で行動する権利を与えられている。
「ええ。その場合は、休暇届を提出するのを忘れないでくださいね」
 事務手続きは、重要だ。銀生はちろりと視線を流し、
「それ、日付ヌキで書いといてくれません?」
 と、上目遣いで言った。


 翌日、藍は偽の休暇届を提出して莫の国に向かった。
 まったく、言い出したらきかないんだから。だれもいない事務所で、銀生は心置きなく煙草を吸っていた。
 いいねえ、なーんの気兼ねもなく一服できるのって。昼にはラーメンを作って食べよう。もうすぐ、昏の見舞いに行っている碧も帰ってくるだろうから、二人前。久しぶりに味噌ラーメンにするかな。碧は味噌バターラーメンが好きだし。
 などと考えていると、入り口のドアがぎしぎしと鳴り始めた。
 特務三課の入っている建物は、取り壊し予定だった旧独身寮で、全体的にかなりガタがきている。窓やドアもすんなりとは開け閉めできないところが多く、オフィスのドアもそれは同様だった。
「はいはい。だれー?」
 銀生は煙草をくわえたま、言った。
「社課長〜っ。あたしですー。ちょっと、ここ、開けてください」
「なーんだ、一葉か。おかしいなー。鍵はかかってないんだけど」
 声の主は、東風一葉(こち かずは)だった。彼女は碧たちの同期生で、桐野家が出資している孤児院の出身だ。いまは総務部の秘書課に所属していて、ときおり冠の連絡係として本部と特務三課とを行き来している。
「だって、こっちからじゃ開かないんですもの」
「んー。ちょっと待って」
 仕方なく、立ち上がる。
「ほらよっと。……開くじゃない」
「……いっそのこと、ドアなんか外しちゃったらどうですか。どうせ盗られるようなモノ、ないでしょ」
 なかなか辛辣である。
「あるんだなー、それが」
「……なんですか」
 きらり、と銀杏のような瞳が光る。まさしく獲物を狙う目。すべからく、女ってのは手強い。銀生は常々そう思っている。
「これだよ、これ」
 ずいっ、と、先刻買ってきたばかりの「一文字屋」のせんべいを差し出した。
「あーっ、『一文字屋』! これ、いま大ブレークしてますよねえ。売り切れ御免の店、っていうんで『こだわりウォーカー』にも載ってましたもん」
 そうなのだ。せっかく、隠れた名店を発掘したと思ってひそかに通っていたのに。
 このごろは開店前に行列ができるようになってしまって、なかなか目当ての品を手に入れられない。銀生のイチ押しは大判の醤油せんべいで、中央に店の名の通り一文字の焼印が押してある。そのちょっと焦げた醤油の味がまた絶品なのだ。
「ねえ、社課長。一枚でいいから、あたしにも……」
「わーかった。やるから、ヘタな芝居はやめろ」
 怜のやつ、ヘンなこと教えるなよ。心の中でため息をつく。
 海棠怜(かいどう れい)は秘書課の課長で、情報部の表も裏も知り尽くした女だ。食われた男は数知れず、それを手足のごとく使って現在の地位を確固たるものにしている。
 よくよく考えてみれば、あれが秘書課に納まってるのは惜しいよな。
 あらためて、思う。潜入任務を与えれば、それこそ抜群の成績を上げるだろうに。
 もっとも、そのあたりの人事は上層部も承知していよう。それでも秘書課に留めているには、それなりに理由はあるはずだ。
「おまえはねえ、そんまんまで十分かわいいんだから」
 フォローと本気を混ぜて、言う。一葉の目がまん丸になった。
「……課長、なんかヘン」
「はあ?」
「もしかして、桐野主任に振られたんですかっ??」
 なんだよ、それ。
 自分たちのことはべつに隠し立てしてないが、それとこれとどういう関係があるのだろう。
「だから、今度はロリコンに宗旨変えして……」
 怜〜。部下はちゃんと教育しろよ。銀生はこめかみを押さえた。
 なんとか気を取り直したところに、ふたたびギシギシとドアが揺れた。碧かな。銀生が戸口に向かおうとしたとき。
「こんちくしょーーーっ!」
 どしん。ばきばきっ!!!
 怒号とともに、ドアが破られた。勢いよく転がりこんできたのは、予想通り碧だった。
「……ったー。もう、なんなんだよ。このドア……」
 頭を振りつつ、立ち上がる。
「あれえ、一葉。どうしたんだよ、今日は」
 ふたりは学び舎に入る前からの幼なじみである。
「どうしたもこうしたもないわよ。昏くんが怪我したの、あんたのせいだっていうじゃない。よくそれで『水鏡』やってられるわねっ」
「そっ……そんなこと言われても」
「桐野主任だって、そのために外の任務、受けたんでしょ」
 一葉は一時期、『水鏡』候補だったことがある。それゆえ、三課の任務内容も熟知しているのだ。
 碧はしゅんとして下を向いた。
「ま、今日はこれに免じて許してあげるわ」
 一葉もそれ以上は責める気はないらしく、銀生の手元からせんべいを一枚抜き取った。
「あ、そうそう。冠さまが、今回のことについての報告書、あした中に提出しなさい、って」
「えええーーーっっ。あしたって、そりゃムリだよっ」
「無理は承知よ。でも、それぐらいのこと、してもバチは当たらないんじゃない?」
 にっこりと笑って、碧の前を通りすぎる。
「ちゃーんとした報告書ができたら、ドアも修理してもらえるかもねー」
 とどめのひと言を投げて、一葉は部屋を出ていった。
「……銀生さん〜」
 情けなさそうな顔。言いたいことはわかるが、こればかりはどうしようもない。
「ま。……がんばれよ」
 頼みの綱のデスクワークの達人は、いま莫の国に向かっているのだ。重大な任務を帯びて。
 がっくりと肩を落としてデスクに向かう碧に、銀生はことさら明るく「昼飯は味噌バターラーメン大盛だからな」と声をかけた。