本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT3 社課長の三段論法

 夕刻。
 特務三課のオフィスでは、不毛な会話が続いていた。
「ねえねえ、『一文字屋』のせんべい、返してくださいよー」
「駄目です」
「そんなこと言わないで」
「駄目なものは、駄目です」
「さっき、『指切りげんまん』したじゃないですか」
 涙目でずずいっ、と藍に近づいてきたのは、三課の課長である社銀生である。
「藍さん、約束、破るんですか? そんなことしたら、指切ってゲンコツ一万回に針千本ですよっ」
 かなり本気だ。藍はため息をついた。
 ちなみに「指切りげんまん」の「げんまん」とは、銀生の言の通り、「げんこつで一万回殴る」というのが語源であるらしい。妙なところで博識な男である。
「勤務中は、ここでの飲食はやめてくださいと申し上げたでしょう」
 何度目になるかわからない台詞を繰り返す。いったい、何回言ったらわかるんだ。おれは保育園の職員じゃないんだぞ。たしかに教員資格は持っているが。
 仕事上、できるだけ多くの資格を取るようにしている。いつ、どんなときに役に立つとも限らないから。
「勤務中なんて、指切りのときは言ってませんでしたよ」
「え?」
「終業時間には返します、って言っただけで」
「ですから、まだ仕事は終わってないでしょう!」
 昼ごろに特務一課の課長である錦織がもたらした情報によると、夏氏の王族が西呂の砦に逃げてきたという。莫の国との関係が微妙なこの時期、公に夏氏からの亡命を受け入れるわけにもいかず、外交任務担当の一課では上を下への大騒ぎになっていた。
 三課の任務には、各部署の補佐も含まれる。夏氏領にはいま碧たちが潜入していることもあって、今夜はオフィスに泊まり込んで、各部との連絡や調整に当たる予定だった。
 銀生とて、それは十二分に承知している。まがりなりにも三課の長なのだ。事の重大さはわかっているはずなのに。
 それなのに、この緊張感の欠片もない会話はなんだ。いや、ある意味、異様な圧力は感じるが。
「いけませんねえ、桐野主任」
 出た。役職名で呼ばれると、いつもロクなことがない。
「言葉は正確に使わないと。情報部員たるもの、わずかな言い間違いで命の危険にさらされることもあるんですよ」
「課長に言われなくても、承知しています」
 こちらも役職名で返す。
「だったら、早く俺のせんべい、返してください」
「……論理の展開が見えないんですが」
「なーに。カンタンなことですよ」
 銀生はきれいに目を細めた。なまじ整った造作をしているだけに、微笑みにも底知れぬ凄さを感じる。藍はぐっと唇をかみしめて、次の語を待った。
「一つ、あんたは『終業時間には返す』と言った。二つ、いまは午後六時である。三つ、ゆえにあんたは、俺にせんべいを返さねばならない。以上です」
 指を一本ずつ立てながら、流れるように論じる。
「さあ、藍さん。『一文字屋』のせんべいを……」
「ちょ……ちょっと待ってくださいっ」
 思わず頷きそうになるのを理性の力で止めて、藍は叫んだ。
「なんですか?」
「たしかにいまは六時ですが、われわれの仕事はまだこれからが正念場なんですよ。碧たちのことだって……」
 心配だった。王族が亡命してきたのだ。夏氏領はすでに莫の国の支配が固まったと見ていい。城のひとつぐらいなら、ふたりでもなんとかなるだろうが、国境までのルートも押さえられているとしたら。
 脱出できるだろうか。碧が莫の術者の結界を破り、退路を確保できればいいのだが。
 いますぐにでも応援に行きたかった。だが、勝手に動くことはできない。そう思って、必死にこらえているというのに、この男ときたら……。
「ですからね、そこが間違ってるんです」
 銀生はやれやれといった調子で、ため息をついた。
「あんたは『終業時間』と言った。『仕事が終わったら』とはひと言も言ってませんよ」
 やられた。
 藍は心の中で舌打ちした。終業「時間」か。たしかに午後六時は、労務規約上の終業時間である。
「納得いただいたようなので、返してもらいますよー」
 ガサガサと、せんべいの袋を取り出す。
「ちょっと湿気ちゃいましたかねえ。焼き直すかな」
 すたすたとコンロの前に行く。焼くって、ここでか? 藍はあわてて上司のあとを追った。
「それはやめてください。匂いが籠もります!」
 碧のおかげで(?)トイレのドアは修理されたのだが、いまだに空調の調子は悪い。先日この男にキムチラーメンを食べられたあとは、三日ばかり室内にニンニクやらショウガやらのなんとも言えない匂いが充満していた。
「いいじゃないですか。ちょっとぐらい」
「あなたはよくても、おれが困ります。どうしてもとおっしゃるなら、二階の倉庫から七輪を出してきて中庭でやってください」
 特務三課のオフィスが入っている建物は、近々取り壊す予定だった旧独身寮で、いまでは各部の不用品や季節ものの雑貨などの倉庫代わりに使われている。
「ええーっ、もう、ジャマくさいなー」
 文句を言いつつも、せんべいを奪還したことに気をよくしているらしい銀生は、すたすたと戸口に向かった。そのとき。
 ぎぎぎぎいいいーーー。
 いつものごとく、不快音を響かせてドアが開いた。
「藍にーちゃーんっ」
 聞き慣れた声。一瞬、空耳かと思った。あいつらはいま、夏氏領にいるはずなのに。
「たっだいま〜」
 本物だ。藍はあわてて駆け寄った。銀生も目を見開いている。
「どうしたんだ、おまえ。任務は……」
 碧の旅着はあちらこちら破れていた。いくつか血もにじんでいる。砂漠を通ってきたのか、細かい砂がさらさらと床に落ちた。
「途中まではうまくいってたんだけど、きのう、なんか急に城の様子が変わっちまって……」
 王族が逃亡したからだろう。藍は頷いた。
「昏が、状況が変わったからいったん引き上げようって言ってさー。そんなの、おれはいやだったんだけど昏もケガしたし」
「ケガって……それで、昏はどうした」
「えっ、いままでここに……」
 きょろきょろと左右を見回す。
「のびてますよ〜」
 いつのまに外に出ていたのだろう。銀生の間延びした声が聞こえた。
「こりゃ、途中でだーいぶ出血したねえ」
 廊下に、昏が倒れていた。
「昏!」
 途端に碧の顔色が変わった。
「うそだろ。おまえ、たいしたことないって……」
「心配かけたくなかったんでしょ。男のプライドってやつかねえ。ま、それで死んじゃ元も子もないけど」
 銀生は昏を担ぎ上げた。
「んじゃ、俺、医療棟に行ってきますんで、あとはよろしく〜」
 ぴらぴらと手を振る。その手には、せんべいの紙袋がしっかりと握られていた。