宵闇猫   by 近衛 遼




第七話 訊ね猫

 ポケットの中をさぐり、その名刺を取り出す。
「ここか」
 田辺大亮は、古びたビルの三階を見上げた。
 菅原事務所。興信所だという話だったが、看板もない。郵便受に小さなシールが張られているだけた。
 階段を上って、めざす部屋の前に立った。ドアに「WELCOME」の札がかかっている。大亮はドアを開けた。
「失礼します。あの……」
「はいっ。おはようございます。なにかご用でしょうか」
 戸口の近くにすわっていた青年が、やたらと元気な声で言った。年は二十代半ばといったところか。明るい笑顔が向けられる。
 大亮には意外だった。あの男が勤めている興信所なら、もっと危うい所を予想していたのだ。
「ここ、菅原事務所ですよね」
 思わず、確認してしまった。
「はい、そうです。すみません。わかりにくかったでしょう」
「え、いや、それは……」
「看板ぐらい出せばいいと思うんですけど、うちの所長、そういうところにお金をかけるの嫌みたいで……」
 申し訳なさそうな顔で、言う。
「それで、ご用件はなんでしょうか」
「いや、あの、じつは……」
 大亮は篁の名刺を取り出して、
「この人に用がありまして……」
「すっ……すみませんっ」
 がばっ、と、青年は頭を下げた。
「なにか、ご迷惑をおかけしたんでしょうか。違法駐車とか器物損壊とか無銭飲食とか建造物侵入とかっ」
 軽犯罪の罪名が次々と出てくる。どうやら、あの男はいままでにもいろいろ、その類のことをやっているらしい。
「はあ、まあ、不法侵入……ですかね」
「あーっ、やっぱり」
 青年はふたたび、深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。調査の過程において、必要に迫られてそういうことになったとは思うんですが、ご迷惑をおかけしたことはお詫びします。いま、本人も所長も不在ですが、どうかこちらに……」
 ぺこぺことお辞儀しつつ、青年は奥のドアを開けた。かなり年代物の(要するに、ボロい)応接セットが置いてある。
「おれ……いえ、私、この事務所の事務員で、三剣茉莉(みつるぎ まつり)といいます」
 きっちり三十度の礼をして、青年は言った。
「所長や調査員の留守中においでになった方々のお話は、私がお伺いすることになっておりますので、よろしくお願いします。もちろん、プライバシーに関する事柄は、捜査礼状がなければ外に漏らすことはいたしません」
 真摯な表情。三剣と名乗った青年の言葉には、まっすぐな誠意が感じられた。
「では、三剣さん」
 大亮は自分の名刺を差し出し、これまでのいきさつをかいつまんで話した。篁が馨にナイフを突きつけたシーンは割愛したが。
「それで、篁さんなら馨を探し出してくれるんじゃないかと思いまして」
 警察に届けるわけにはいかない。さりとて、そのへんの興信所にも頼めない。ここは、自分たちの関係を承知しているあの男に頼むしかない。甚だ不本意だが、背に腹は代えられない。
「わかりました。篁を呼び出してみます」
 三剣は受話器を手にして、ボタンを押した。ややあって。
「すみません。どうもうまく繋がらなくて……しばらくお待ちください」
 すまなそうに言って、さらにボタンを押す。何度かそれを繰り返したあと。
 三剣は事務所の電話をガチャン!と投げつけた。
 大亮がおどろいて見ていると、
「……あ、ちょっと失礼しますね」
 三剣は窓際に行き、懐から携帯電話を取り出した。ピッ、とボタンを押す。どうやら、短縮番号を登録しているらしい。約十秒後。
「篁さん? 起きてください」
 三剣は携帯電話に向かって、そう言った。
「とにかく、すぐに事務所に来てください。緊急事態なんですから……え? 眠い? 甘えるのもいい加減にしてくださいよ。そんなわがままばかり言うんなら、もうごはん作りませんからねっ」
 なにやら、真剣に怒っている。あの男にこんな物言いをするとは、見かけによらずすごい人物なのかもしれない。大亮はしげしげと三剣を見た。
「お待たせしました。篁と連絡が取れました。三十分ほどでこちらに到着すると思いますので」
「……それはどうも」
 大亮はソファーに腰を下ろした。ギギッ、と妙な音がする。座り心地がいいとはお世辞にも言えなかったが、その点は気にしないことにした。
 しばらくして、三剣がコーヒーとクッキーを持ってきた。香ばしい匂い。丁寧にいれたものであることは、すぐにわかった。それを飲みながら、待つこと二十分あまり。
 ばたん!とドアが開いて、栗色の髪の男が転がるようにして入ってきた。
「マリちゃん、オレ来たよっ。だから、ごはん作らないなんて言わないでっ」
 ……なんなんだ、これは。
 大亮は自分の目を疑った。これが、馨を後ろ手に縛ってナイフを突きつけた男なのか。
「篁さん、はい、これ。お仕事です」
 三剣は大亮の名刺を差し出した。
「家出人の捜索。いいですね」
「え、あ、うん」
 名刺を受け取って、篁はこちらを見た。
「……田辺さん」
 瞬時に、顔つきが変わる。大亮の知っている篁の顔に。
「もしかして、馨くんがいなくなったんですか?」
 家出人の捜索。そう聞いただけで、篁はある程度の事情を察したらしい。
「いつです」
 前置きなどない。なんとも敏速な対応だ。
「今朝方だと思う。夜中の……二時ごろまでは、うちにいた」
 手当をして、寝かせて。そのあと。
 七時半に目覚ましが鳴るまでの記憶はない。
「そうですか。で、所持金は」
「せいぜい二、三万といったところだろう。ただ、霞洲翁の初版本は全部持って出ている」
「なるほど。霞洲翁ねえ」
 篁はしばし思案して、
「じゃ、まず竹林堂に行ってみましょう」
「竹林堂?」
「霞洲翁と馨くんを繋ぐのはそこでしょ。……あ、そうでもないか」
 篁はくすりと笑った。デスクから何枚かの名刺を取り出して、確認する。
「あー、これかな。マリちゃーん」
 篁は三剣に向かって、ぴらぴらと手を振った。
「加賀ちゃんとこに連絡して、五月組の若頭に先代の別宅に来てもらうよう頼んでおいて」
「はあ? 五月組って、それとこれとどんな関係が……」
 五月組とは、西日本一帯に勢力を持つ暴力団である。
「いーのいーの。加賀ちゃんには、最優先だって言っといてね。ま、ダメならべつに、勝手に行くからいいけど」
「やめてくださいっ。そっちのスジともめ事起こして、鉄砲玉が飛んでくるのはごめんです!」
 会話の内容からして、やはりかなり危ない仕事をしているようだ。大亮は嘆息した。
「マリちゃんが電話してくれたら、だいじょーぶだよ。ね?」
 まるっきり子供のような口調で言う篁に、三剣はぐっと唇を結んだ。
「……わかりました。加賀先生には、超特急でやってもらうよう言っておきますから、くれぐれも無茶なことはしないでくださいね」
 ちなみに加賀というのは、菅原事務所と懇意にしている弁護士のことらしい。
「はーい。じゃ、よろしくねー」
 明るい声で、篁が言った。スキップを踏むような足取りで事務所を出る。
「あなたも来るんですか?」
 外に出た篁の顔は、また過日見たそれに変わっていた。モスグリーンの冷ややかな瞳が向けられる。
「え? ……ええ」
「鉄砲玉が飛んでくるかもしれませんよ」
「わかってます」
「ふーん。だったら、いいです」
 にっこりと笑って、篁は続けた。
「愛って、やっぱり偉大ですね」
 やたらと俗っぽい表現。しかし、本人は大真面目である。
「行きましょうか」
 篁が視線を前に向ける。大亮はしっかりと頷いて、そのあとに続いた。

FIN.

      

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