| 宵闇猫 by 近衛 遼 第六話 秋行く猫 ポケットをさぐって鍵を出し、部屋のドアを開ける。 「帰ったぞー」 奥に向かって、田辺大亮は言った。リビングの明かりは点いている。が、返事がない。 なにやってんだ。またソファーでうたた寝でもしてるのか。 馨は、大亮が明け方に帰ってきても起きて待っていることもあれば、夕方にくうくうと昼寝(夕方だから夕寝か?)をしていることもあった。基本的に、起きたいときに起きて、寝たいときに寝て、食べたいときに食べる。まあ、言ってみれば猫みたいなやつだ。もっとも、最近は朝夕の食事とベッドの上のあれこれは、大亮と時間を共有していたが。 リビングに入ると、馨がソファーの前にすわりこんで、なにかを読んでいるのが見えた。どうやら読書に没頭しているようだ。こっちが帰ってきたのにも気づかないとは、いったいどんな本を読んでいるのだろう。 「おい、馨」 うしろから、声をかける。馨はびくっとして、顔を上げた。 「あ、おかえり」 手元の本を閉じる。古いハードカバーの本。四十年ばかり前に夭折した作家、霞洲翁(かすみ しゅうおう)の初版本だ。 大亮は心の中で嘆息した。 馨はどちらかというと乱読で、まったくジャンルの違う本を四、五冊併読するクセがあるが、霞洲翁の本だけは、じっくりと、しかも繰り返し読んでいる。 先日、篁冬威とかいう胡散くさい男がその本目当てにここに侵入したときも、馨は本を譲るのを拒んだ。結果的に、篁の目的は本そのものではなく、本の裏表紙に隠されていたマイクロチップだったのだが、真相を知らないうちに、不意の闖入者の要求を拒否したのは、よほどの覚悟があったとしか思えない。 「また、それを見ていたのか」 「また?」 不思議そうな顔で、馨。 「霞洲翁だろ」 「そうだけど、これは四巻目だよ」 「え?」 たしか、うちには三巻までしかなかったはず。ということは、こいつ、どこからか四巻目を見つけてきたのか。 馨はひとりで出かけるのが苦手だ。近所のスーパーやコンビニぐらいなら行けるようになったが、ちょっと離れたところだと、必ず大亮を誘う。こんなに本好きなくせに、駅前の古本屋に行くのさえ、ひとりでは行きたくないらしい。それなのに。 「『竹林堂』で買ったのか?」 「さあ」 「さあ、って……」 「篁さんが、くれたんだ」 「篁!?」 思わず、大声を出してしまった。 「どうして、あの男が……いや、それより、おまえ……あいつを家に入れたのか!」 先日、篁冬威はここに不法侵入して、馨を縛ってナイフを突きつけ、大亮に霞洲翁の初版本を持ってくるよう脅した。実際は、刃のついていないナイフだったらしいが、それでも十分「脅迫」だった。そんな男が、またここに来たというのか。 「どうなんだ」 大亮は馨の腕を掴んで、引き上げた。 「答えろ!」 腹の奥底から、黒々としたものが沸き起こった。許せない。俺の知らないところで、しかもこの家で、こいつがあんなやつと……。 「ちょ……ちょっと待って……」 馨は身をよじった。 「痛っ……や……やめてよっ」 かぶりを振って、叫ぶ。 はじめて聞く声だった。いつも淡々としていて、こちらの要求にごく自然に応じていた馨の、はじめての拒絶。 いやなのか。逃げるのか。俺から離れたいのか。馨。 大亮は馨をソファーに投げ倒した。床にあった本を壁に叩き付ける。 「あいつと寝たのか!」 細い体にのしかかり、大亮は言った。 「寝たのかよ。あの……本と引き換えに」 『支払い、しなくちゃね』 なにかにつけて、馨はそう言っていた。食事代、宿代、本代、あるいは、大亮になにかを頼んだときの手間賃。 「どれぐらい、払ったんだ?」 霞洲翁の初版本。ほとんど市場に出回っていないそれの代金は……。 いままで、自分が受け取った「代金」を思い出す。あのときも、あのときも、自分はこのうえない快楽を味わった。甘い声と吐息。それらが時間を忘れるほどの悦びを紡ぎ出して……。 人間の理性なんて、砂の城みたいなもんだ。たった一度の波で簡単に崩れてしまう。激しい潮に飲まれて、もとの形などまったくなくなってしまう。 大亮は馨の衣服を引き裂いた。喉を押さえて、抵抗を封じる。あとはもう、飢えた獣のように目の前の獲物を食らうことしか考えられなかった。 自分がなにをしたのか、大亮はほとんど覚えていなかった。気がついたとき、馨はすでに失神していて、その体には大亮が与えた暴行の跡が無数に散らばっていた。 「か……おる………」 しゃがれた声で名を呼ぶ。むろん、答えなどない。 自らが為したことの愚かさが、ひりひりと染み入る。ほんの少しの疑惑と嫉妬。それが増幅されて、こんなことになってしまった。 「かおる………馨……」 何度も何度も、呼んだ。そうすることしか、大亮にはできなかった。 翌朝。 いつもの時間に目覚ましが鳴った。しまった。あいつが起きちまう。 きのう、あのあと手当をして、そっとベッドに寝かせた。今日はゆっくり休ませなければ。 あわてて目覚ましを切る。ほっとして横を見ると、そこにはだれもいなかった。 「え……」 あわてて、飛び起きる。 もう動けるのか? かなり手ひどくやっちまったが……。 大亮は寝室を出た。トイレにでも行っているのかと思ったが、そこに馨はいなかった。浴室、台所、リビング、果てはベランダ。考えたくもないことだが、ここはマンションの七階。飛び降り自殺のできない高さじゃない。 ベランダから外の様子を窺う。しかし、目に見える範囲にはなんの異状もなかった。 どこだ。馨。どこに行った。 ふたたび、家の中を探す。馨の私物は、ほとんど残っていた。財布は見当たらなかったが、つい先日、大亮が渡した金は、銀行の封筒に入ったまま食器棚の引き出しに置いてあった。 着替えを持って出た形跡はない。所持金もわずか。常識的には、大亮に対する抗議の意味もあって、しばらく外で憂さ晴らしをするために出かけたと考えるのが妥当だろう。 それなら、いいんだが。 大亮はソファーにすわりこんで、唇を噛んだ。ふと横を見ると、サイドテーブルの上に携帯電話。大亮が馨との連絡用に買ったものだ。これを置いていったということは……。 はっとして、大亮はあたりを見回した。 ない。 きのう、怒りにまかせて投げつけた、霞洲翁の初版本。それが一冊もない。たしか四巻あったはずなのに。 「なんてこった……」 馨は、あれだけは持っていったのだ。あの本だけは。 二巻は、大亮が買った。三巻目は馨が買った。四巻目は、あの篁とかいう男がくれたという。 自分には、あの男のことしか見えていなかった。馨はずっと、その本自体を大切にしていたのに。 なにか事情があるのだとは思っていた。霞洲翁の初版本に関する、なにかが。 だが、自分はそれを訊かなかった。訊く必要もないと思っていた。過去を知ることで、馨が離れていくのを恐れていたのかもしれない。 いまになって、気づくなんて。 逃げていたのは、俺の方だ。馨は、それを見て見ぬふりをしていただけ。 大亮は立ち上がった。事務所宛てに、欠勤のメールを入れる。かなりペナルティがつきそうだが、そんなことは言っていられない。手早く身仕度を整えて、部屋を出る。 外は見事な秋晴れだった。駅に向かって、全速力で走る。ポケットには、竹林堂であの男からもらった名刺が、しっかりと納められていた。 FIN. |