宵闇猫   by 近衛 遼




第八話  囲われ猫

 ポケットの中をさぐり、篁は煙草を取り出した。
「あ、すみません。田辺さんは煙草吸います?」
「は? ええ、まあ」
 といっても、ヘビースモーカーではない。平均して、二日で一箱といったところだ。
「じゃ、失礼して吸わせてもらいますねー」
 篁は煙草をくわえた。
 意外に、気配りする男なんだな。助手席で、大亮は思った。
 いま、ふたりは避暑地として有名なとある場所にある別荘に向かって車を走らせている。車の中で喫煙すると、当然ながら匂いがこもるので、煙草が苦手な人間には迷惑きわまりないだろう。そのあたりのことを考えて、篁は大亮に確認を取ったのだ。それも、「吸ってもいいですか」ではなく、「吸います?」と。
 たいていの場合、吸ってもいいかと訊かれたら、本当は嫌でも「どうぞ」と言ってしまう。そこを、吸いますかと訊くことで相手が喫煙者かどうかの情報を得て、吸うか吸わないでおくかを決めるとは、なかなか思慮深い男だ。
「健康に悪いって、よく怒られるんですけどねー。頭を切り替えたいときには、けっこう効くんで」
「怒られるって……」
 この男にそんなことを言える人間がいるのか。ああ、でも。
 大亮は、ついさっき会った三剣とかいう青年を思い出した。
『そんなわがままばかり言うんなら、もうごはん作りませんからねっ』
 そのひとことで、この男は飛んできたのだ。なるほど。そういう関係か。
「ふだんは、とーってもやさしいんですけど、怒るとすっごく恐くて」
「はあ、そうですか」
 なんとも、返事の仕様がない。
「ところで、篁さん」
「はい、なんですか」
「その、五月組というのは……」
 馨とどんな関わりがあるのだろう。たしか、先代の別宅とか言っていたが。
「うーん。オレが言っちゃっていいのかなー」
「なにか知っているなら、教えてください」
 自分は、馨のことをなにひとつ知らない。
「まあ、緊急時ですしね。守秘義務違反だけど、いいってことにしときますか」
 篁は煙草を灰皿に押しつけた。
「馨くんは、五月組の先代に世話になってたんですよ」
「世話にって、つまり……」
「実際んとこはわかりませんけど、一般的に考えたら囲われてたってことになるんでしょうね。先代は両刀遣いだったそうですし」
 男相手の商売をしていたことは知っていた。最初に誘ってきたのは馨の方だったし、その種の興味のなかった自分がここまでのめりこんでしまったのは、馨に魅せられたからにほかならない。しかし、まさか囲われ者だったとは。
「半年ばかり前に先代が亡くなって……ほら、あのアメリカの航空機事故ですよ。あのとき、先代と何人かの幹部が乗り合わせてましてね。急なことだったんで、五月組も大わらわだったみたいです。で、馨くんは別宅を追い出された。五月組としちゃ、組長が孫みたいな男の子を囲ってたなんて、公にしたくなかったんでしょうね。口止め料にいくらかの金を渡して……同時に、だいぶ脅しもかけたようで」
「脅し?」
「ここで見聞きしたことをバラしたら殺す、ってね」
 それで、あまり外に出たがらなかったのか。それにしても、馨はほとんど現金を持っていなかったはずだが。
「あ、それね。どうやら、橋の上からばらまいちゃったみたいですよ」
 くすくすと笑って、篁は言った。
「覚えてません? 川に現金が浮いてて、それを近所の人が拾ったっていうニュース」
 それは大亮も覚えていた。たしか四月のはじめごろだったか。そういえば、さっき篁が言っていた航空機事故が起こったのも、同じ時期だ。
「あいつ、どうしてそんなことを」
「さあねー。それは馨くんに訊いてみないと」
「篁さんは、馨がその別宅にいると思ってるんですか」
「確率は高いかなーって」
「でも、もう組長はいないし、追い出されたわけでしょう。そんなところに戻ったりしたら、危ないじゃないですか」
 ヤクザの組長の別宅。もしかしたら、いまはだれかべつの人間が住んでいるかもしれない。
「だから、若頭に来てもらうよう頼んだんですよ」
 篁は言った。
「もし馨くんがそこにいたら、保護してもらおうと思って」
「そんなことができるんですか?」
「まー、若頭とはいろいろ付き合いがありましてね。なんとかなるでしょ」
 ヤクザと付き合いがあるだと? やはり、とんでもない男だ。しかし、いまはこの男の力を借りるしかない。
 大亮は黙って、前方を見つめた。


 その別荘は、小高い丘の上に建っていた。さわさわと風が流れる。ほんの少し紅葉した木々が、あたりの景色に彩りを添えていた。
「あ、さすがは加賀ちゃん。若頭と一緒に来てるよ。マリちゃんがプッシュしてくれたのかなー」
 篁は独り言のようにそう言って、車を停めた。
 別荘の前には、ほかに二台の車が止まっている。一台はこれでもかというほどピカピカに磨き上げられた黒塗りのベンツ。もう一台は銀色のBMWだった。ちなみに篁が運転してきた車は、ごく一般的な白の国産車である。
 篁と大亮が車から降りると、細い銀縁眼鏡をかけた四十前後の男が近づいてきた。襟のバッジからして、この男が弁護士の加賀であるらしい。
「加賀先生、お手数をおかけします」
 さっきまで「加賀ちゃん」とか呼んでいた篁が、至極真面目にそう言った。
「だいたいの話は三剣くんから聞いたが……高くつくぞ」
「はい。でも、このあいだの仕事がうまくいったのは馨くんのおかげなんで、そのへんは相殺ってことにしといてください」
 このあいだの仕事。もしかして、あのマイクロチップのことか。
「それで、馨くんは」
「リビングで寝とるわ。たいしたガキや」
 横から、プロレスラーのような大柄な男が答えた。眼光するどい男たちがふたり、うしろに控えている。
「すみませんねえ、若頭。こちらの都合で、ご足労かけちゃって」
「気にせんでええ。そのかわり、今度なんかあったらタダ働きしてもらうで」
「うわ、そりゃタイヘンそうですね」
「わしらはもう去(い)ぬけど、ほかになんか用あるんか」
「いいえ。あ、そうですね。お願いついでにもうひとつ」
「なんや」
「この別荘、今日一日、貸してもらえます?」
「一日なんてシケたこと言わんでも、三日でも四日でも貸したるわ。いまは倉庫みたいになっとるけどな。あのガキが入り込みよったおかげで、セキュリティがイカれとることもわかったし、ちょうどよかったわ」
 若頭が目で合図すると、うしろにいた男のひとりが、篁に鍵束を渡した。
「じゃ、お言葉に甘えて」
 篁がぺこりと頭を下げると、若頭はさっさとベンツに乗り込んだ。滑るように走り出す。それを見送った篁は、
「じゃ、田辺さん。これ」
「は?」
「鍵ですよ。あとはよろしく」
「よろしくって……」
「家出人の捜索、終了です。あとはあなたと馨くんの問題ですから、オレは帰ります」
「で……でも……」
 ヤクザの別荘に置き去りにされるのは、ちょっと……いや、かなり困る。いくら貸してくれると言ったからって、いつなにが起こるかわからないじゃないか。
「大丈夫ですって。若頭は約束は守ります。あ、車は置いていきますね。……というわけで、加賀先生。同乗させてもらっていいですか」
「嫌とは言えんだろ」
 むっつりとしたまま、加賀は答えた。
「ありがとうございます。じゃ、田辺さん。後日、請求書をお送りしますから、よろしくお願いしますねー」
 請求書。いったい、どれくらい払えばいいのだろう。見当もつかないが、当分は節約生活をしなくてはいけないかもしれない。
 BMWが遠ざかっていく。その影が見えなくなってから、大亮はゆっくりと別荘のドアを開けた。
 
FIN.