水鏡映天  by近衛 遼




ACT9

『あれは、人ではない』
 御門は言った。それならば。
 自分もまた、「人」ではない。御門の「手」となることを選んだ、あの日から。


 窓の外は、もう黄昏だった。晩秋の日が落ちるのは、早い。
「は……あ……あ…んっ……」
 体の命ずるままに、声が漏れる。どこもかしこも、与儀の色に染められて。
 しるしが刻まれる。痛いほどに。先日までの名残りの上に、さらに強く、激しく。
 どんなに責められても、苦痛だけではない陶酔がある。快感だけではない歓びがある。
 床に背中が擦れる。高く持ち上げられた脚はひきつり、手は与儀の肩に力なく引っかかっている。
「いい?」
 与儀が訊く。篝は頷く。何度も、何度も。
 それでも、与儀は篝の体を放さなかった。頂点にまで達していても、なおもなにかを求めるように貪り続ける。
 意識は、もうほとんどなかった。ただ、与儀が留まっている場所だけが、生を訴えている。
『くれるって、言ったよね』
 金の瞳が、まっすぐに向けられた。
 ほしい。ほしい。ほしい。
 焼けるような思いが伝わる。すでに幾度も交わっているのに。声を、表情を、熱を、隅々まで感じているのに。
 でも、足りない。まだ足りない。本当にほしいのは……。
 わかっている。自分も、そうだから。
「与儀……」
 思わず、その名を口にした。与儀の動きが止まる。
「……」
 唇が震えている。なにか言おうとしているのだが、その音は空気を伝わることはなく。
 そのかわり、与儀は篝に深く口付けた。


「ごめんね」
 寝台の上で、与儀は篝の背に舌を這わせた。
 床で擦れた跡。もしかしたら、皮膚が破れたかもしれない。じんじんとした痛みと、熱さ。与儀の舌が、丹念に傷の上を移動していく。
「きれいな背中なのに」
 いつぞやも言われた。こんなに傷だらけの体なのに。
 与儀の体は、いくつかの古傷のほかは、まったくと言っていいほど跡がなかった。資料によれば、御影になってからはほとんど負傷したことがないという。敵も味方も関係なく、その場にいる者をすべて滅してきたからこそ、自らはかすり傷ひとつつけることもなかったのだろう。
 篝は身じろぎした。
 自分で自分の変化に困惑する。わずかに体を浮かせて、背後を見遣った。
「なに?」
 与儀も顔を上げる。篝はおずおずとその事実を告げた。
「え……」
 さすがに驚いたようだ。が、すぐに態勢を整えて、篝の腰を支えた。
「オレはうれしいけど……でも、ほんとにいいの」
 いいも悪いもない。もう、ごまかせない。篝は与儀を導いた。もっとも正直な場所へと。
 鎮まりかけていた熱情が、ふたたびふつふつと沸き上がる。
 青白い月明りが窓から差し込むまで、ふたりは互いの一部だった。


 その日から。
 与儀は東館の最上階に厳重な結界を張って、余人を寄せつけなくなった。
 篝がいわば軟禁状態になったと知って、燭たちはひどく慌てた。が、うっかりしたことをすると、東館だけではなく、御影宿舎全体を破壊されてしまう恐れがある。結局、ここはしばらく様子を見ようという結論に達したらしい。
 客観的に見れば、自分はとてつもなく質の悪い御影に目をつけられ、閉じ込められた哀れな水鏡ということになるのだろう。本来の仕事もまっとうできず、こうして日毎夜毎に与儀を受け入れる。遠征の際に雇われる色子のように。
 いまごろ、御門はなにを思っているだろう。無様な「手」など、早々に始末せよと燭に命を下しているかもしれない。
 ときおり、燭や飛沫が最上階まで上がってきているようだったが、たいていは廊下の端で与儀に追い返されていた。
「だれにも、邪魔はさせないよー」
 篝の体をまさぐりながら、与儀は言った。
「だって、篝はオレのものなんだから」
 それに異論をはさむ気は、もう起こらない。
 「人」であることが叶わないのなら、与儀の「もの」であってもいいとさえ思う。与儀は、篝がはじめて素のままの心を向けた相手だから。
 もしあのとき、会っていなかったら。
 いや、会っていたとしても、自分がまだ「手」ではなかったとしたら。
 血まみれの子供を見ても、知らぬふりをして通り過ぎていたかもしれないし、逆にうかつに近づいて、殺されていたかもしれない。
 いくつもの、「もし」があった。その幾千、幾万の道の中から、たったひとつの道を通って、いまがあるのだ。
 ここに籠もって、もう何日になるだろう。考えるのも億劫で。
 眠るときと食べるとき以外は、ほとんど与儀の腕の中にいた。
 全部、ほしい。
 そう言う与儀を、篝は百パーセント受容した。
 あげるよ。全部。もっと早くにあげていればよかった。上衣だけではなく。
 そういえば。
 篝はふと考えた。あの上衣はどうなったのだろう。もちろん、子供用の服だからもう着られないだろうが。
 捨てられたかな。あの行李の中を見るかぎり、この男が着るものに執着するとは思えないから。
「……なに笑ってんの」
 顔を上げて、与儀が訊いた。
「ほかのこと、考えないでよ」
「あなたのことですよ」
「だったら、いいけど……」
 ふたたび顔を伏せて、大きく息を吸い込む。
「あー、やっぱりいいなー。篝の匂いって」
「そうですか?」
 篝は与儀の頭を抱いた。胸のあたりで、銀髪が揺れる。
「うん。すっごく落ち着く。でも、すっごく興奮もする」
「どっちなんですか」
「だからー、どっちもなの」
 与儀はがっしりと、篝の肩を押さえつけた。
「興奮した」
 たしかに、そのようだ。
 篝はわずかに目を伏せて、ゆるゆると体を開いた。