水鏡映天 by近衛 遼 ACT8 篝たちが復命を果たしたのは、翌日のことだった。 往路とは違い、復路は至極まっとうな道を辿り、ほぼ予定通りの時間で御影宿舎に帰り着いた。 宿舎の講堂に入ったとき、その場にいた者たちは皆、ひどく驚いたようだった。なにしろ、与儀が同道した「水鏡」を無事に連れ帰ったのは、はじめてのことだったから。 足手まといは捨ててくる。邪魔者は始末する。「銀狼のヨギ」はそういう男だ。 「……与儀」 御影長の燭は、苦虫を噛み潰したような顔をした。 「莫の細作排除は命じたが、砦を潰せと言った覚えはないぞ」 「だーって、門に莫のやつらがいたんだよー。それって、砦がぶんどられたってことでしょ。だったら、後腐れなくやっちゃった方がいいじゃん」 悪びれもせず、与儀は言った。燭はそれ以上なにも言及せず、報告書を受け取った。ちなみに、その報告書は篝が作成したものだ。与儀はおよそ事務処理能力のない男で、これまではすべて口頭で報告していた。 「ご苦労だった。下がれ」 「はーいっ。篝ー、行こ行こ」 スキップを踏むような調子で、与儀が篝の腕をとる。 「待て」 「なにー?」 「桐野には、まだ話がある」 「えーっ、なによー。……話だけだろうね」 じろり、と上座をにらむ。燭はその視線を受け流し、 「八代さまより、親書が届いている」 淡々と告げる。与儀は肩をすくめた。 「ふーん。ミカドからか。じゃ、オレ、部屋に戻ってるねー」 すたすたと戸口に向かう。与儀の姿が扉の向こうに消えたあと、燭は小さくたたんだ書状を篝に差し出した。 「さすがに、ご心配であられるようだ。できるだけ細かく報告を、な」 「は」 拝礼して、書状を受け取る。 その場で開封して、中を確認した。いわく、『身を投ずるに及ばず』。 ……命を賭けることはない、か。 篝はその文を滅した。てのひらを見つめ、苦笑する。 ならば、なにゆえに命を下したのか。「銀狼のヨギ」を探れなどと。あの男に接近するだけでも、十分、命の危険があるというのに。 「ときに……部屋替えの件だが」 燭が低い声で言った。 「与儀は今日にでもおまえを東に入れたいようだが、どうする」 どうする、だと? こちらに選択権があるとでもいうのか。与儀が望んでいるのに、拒否などできるはずもない。篝は問い返した。 「燭どのが許可すれば、決定でしょう」 「それはそうだが、おまえが東の、しかも最上階に入ってしまうと、監視がやりづらくなる。できれば、北に留まっていてほしいのだが」 「……それを、鳥居どのに納得させろと?」 「そういうことだ」 以前、燭は篝が東館に移る条件として「水鏡」の任務をこなしてから、と明言した。物見砦での仕事を終え、与儀は当然、篝が東館に来るものと思っているはず。 説得などできるだろうか。周囲の状況を見ることも、他者の事情を考慮することも、世の中の常識というものも、なにひとつ知らぬあの男を。 実のところ、部屋のことはどうでもいいと思っていた。どうせ北館の自室には、ほとんど帰っていないのだから。が、ここでそれを言う必要もない。 「承知」 きっちりと一礼して、篝はその場を辞した。 「遅かったじゃんかー」 扉を開けるなり、与儀はそう言って篝の首に抱きついた。 「いま、迎えに行こうと思ってたんだよ。あれ、荷物は?」 やはり、与儀は篝が東館に移ってくると思っていたらしい。 「その件は、見送りになりました」 「見送りって、どういうことよ」 剣呑な声。ついさっきまでの機嫌の良さが嘘のようだ。 「水鏡の仕事をこなしたら、引っ越してもいいって……」 「今回の任務では、おれは『水鏡』としての役目を果たせませんでした。ですから……」 「燭が、そう言ったの」 「……はい」 与儀はぐっと唇を結んだ。篝の体を放して、横を向く。 「オレ、ちゃんと言うこと聞いたのに」 ぼそり、と呟く。 「篝と一緒の任務が回ってくるまで、待ってたのに」 重なる。横顔が、幼かったころの与儀と。 「鳥居どの……」 顔を覗き込もうとした、そのとき。 強い力であごを掴まれた。噛みつくような、荒々しい口付け。篝はそのまま床に倒された。 「……っ!」 腰と肩を強く打った。与儀の体重が上体にかかる。 深い口付けだった。なにもかも食い尽くし、解かしてしまうような。 はじめての口付けだった。体は、何度も交わしたけれど。 唇が頬へと滑る。舌先が耳朶をなぶる。篝は身を震わせた。 「帰さない」 与儀の声が耳の奥へと届いた。 「帰さないよ。燭がなに言ったって……」 衣服の下に手が入り込む。馴染んだ体は、それだけで熱を帯びる。 「邪魔するヤツは、みんな殺してやる」 冷たい囁き。篝は戦慄とともに、いわく言い難い感覚を覚えた。 「ねえ、篝」 与儀が顔を上げた。いままでの言葉が嘘のような、無邪気な笑みがそこにはあった。 「いいって言ったよね」 「え……」 「くれるって、言ったよね」 あんたを、全部。 心の声が、肌を通してしみ込んでくる。 なにかを、決定的に間違ってしまったのだろうか。「手」としてこの男と対峙するためには。 今回のことにしても、いくらでも方法はあったはずだ。部屋の場所など気にならないほど甘い飴を与え続けて、この子供のような男を自分に取り込むこともできた。あるいは、燭の方を懐柔して早々に東館に移り、波風をたてずにこの男と一定の距離を置くことも。 どうして、もっと早くに手を打たなかったのか。逃げ場のないところにまで来る前に。 できなかった。動けなかった。記憶の中の自分が、それを許さなかった。 「篝」 焦れたような、与儀の声。篝は両手をそっと上げて、与儀の頬を包んだ。ゆっくりと引き寄せ、唇を合わせる。 「……ええ」 吐息とともに、答える。 「いいですよ」 確定。 金色の瞳が揺れている。 もう戻れない。もう、引き返せない。それでも……。 篝は、「人」でありたいと思った。 |