水鏡映天  by近衛 遼




ACT10

 微妙な「気」の揺れ。
 篝は目を覚ました。もう日は高い。となりにいたはずの与儀の姿は、そこにはなかった。
 だれか、結界の中に入ってきたな。
 篝は身を起こした。手早く身繕いをする。与儀の結界を破るほどの者なら、相当の力の持ち主だろう。
 ……いや。破ったわけではないか。軽く押した感覚だ。篝は扉の側に立って、廊下の様子を窺った。
「放っとけばいいよ、そんなの」
 与儀の声が聞こえた。だれと話しているのだろう。少なくとも、燭ではない。飛沫だろうか。さらに神経をとがらせる。
 久しぶりに、細かくひっそりと念を飛ばした。廊下の端に、ふたつの影。ひとりは与儀だ。そして、その向こうにいるのは……。
「そういうわけにも、いかんだろ」
 あの男だ。与儀と抱き合っていた焦茶色の髪の男。
「まじで、そろそろまずい」
「だったら、どうしようって言うのよ、岳(がく)」
 与儀の「気」が冷たく変わる。岳もそれに気づいたらしく、両手を上げた。
「なんにもしねえよ、俺は。ただ、燭はもう、いろいろ準備しはじめてる」
「準備?」
「最悪の場合、おまえを始末するつもりだぜ」
 燭が? 篝は眉をひそめた。
 たしかに、いま与儀がしていることは重大な背反行為だし、自分もまた、御門の「手」としては失格だろう。しかし、だからといって燭が与儀を排除するために直接動くとは思えなかった。
 さらに考えてみれば、御門は御影の宿舎内の動きを探ろうとしていた。その内情が明らかにならぬうちに、与儀ひとりをどうこうすることはあるまい。
 とすれば。
 篝の頭の中で、ここでの岳の地位と立場が素早く計算されていく。
 燭や飛沫の下位に甘んじてはいるが、上昇志向はかなり強い。ゲリラ戦を得意とし、小回りのきく配下を幾人か持っている。与儀とも、あらゆる意味で懇意にしていて……。
「おまえさあ、ここから抜ける気はねえか」
 ほとんど聞こえないぐらいの声で、岳は言った。
「あの水鏡と一緒にさ」
「篝と?」
「ああ。気に入ってんだろ」
「あったりまえじゃん。篝はオレのもんだよ」
「だったらさー」
 岳が、与儀の肩に手を置く。ぴしり。与儀は視線ひとつでその手を払った。
「ってーっ……。おいおい、そりゃねえだろうが。俺とおまえの仲で」
「オレはもう、おまえなんかいらない。そう言っただろ」
 ぴりぴりとした気。岳はふたたび、両手を上げた。
「へいへい。わかったよ。でもな、いまの話は考えとけよ」
 岳は手を下ろした。
「燭や飛沫が動く前に、ここから出た方がいい。なんなら、俺が手引きしてやるからさ」
「どうして、おまえがそんなことするのよ。バレたら、そっちだってヤバいじゃん」
 ちろりと、与儀がにらむ。岳はにんまりと笑って、
「ま、いままで楽しませてもらったお礼、ってとこかな。それに、燭のあわてる顔も拝んでやりてえし」
「ふーん」
 たいして興味もなさそうに、与儀は答えた。岳が階段を下りていく。
 篝は透視をやめた。与儀が引き返してくる。
「あれ、起きてたの」
 与儀が握り飯と漬物を手に入ってきた。
「もしかして、聞いてた?」
「はい。少し」
「へえ、ぜんぜん気がつかなかったなー。気配消すの、うまいね」
 握り飯を卓に置いて、与儀は寝台に腰掛けた。
「おなかすいただろ。食べよっか」
「いただきます」
 となりにすわって、握り飯を取る。
 食べながら、篝は岳の提案を吟味した。与儀を案じるようなことを言っていたが、それを鵜呑みにはできない。むしろ、その逆かも……。
「どうしたの」
 与儀は篝の顔を覗き込んだ。心配そうな顔。篝は笑みを返した。
「ちょっと、気になったもので」
「なによ」
「岳どののことで」
「あいつが、どうかした?」
「罠かもしれません」
「それぐらい、オレにだってわかってるよー」
 与儀はいたずらっ子のような顔で笑った。
「宿舎の外に出た途端に総攻撃なんてされちゃ、目も当てらんないでしょ」
「いいえ。この話、乗ってみるのも面白いかと思って」
「へ? どういうことよ」
 金色の目が、大きく見開かれた。
「うまくすれば、燭どのに貸しを作れるかもしれませんよ」
「ふーん」
 先刻とは違い、興味津々といった口調。
「いいね。それ。……で、どうやるの」
 与儀の顔が近づいてくる。篝は、計画を説明した。


 かつて、与儀は隣室の仲間を殺した。
 任務ではない。ただの私闘だった。さすがに、燭もそれを見過ごすことはできず、与儀を御影から追放することに決めた。
 そのとき、与儀を庇って御影に保留させたのが岳だ。以後、岳は与儀が暴走しないようにつねに側に置き、やがて体の関係ができた。
「よく覚えてないんだけどねー」
 あっけらかんと、与儀は言った。ほかにも、東館の何人かとそういう間柄になっていたらしい。
 言葉と、抱擁と、快楽。それが任務を成功させるたびにもらえる「ご褒美」だった。もっとも、岳が目付け役のようになってからは、ほかの者との関係は切れたそうだ。
 うわべだけ見れば、岳は与儀の恩人である。が、篝は、件の私闘も岳が仕組んだものだと思っていた。
 どういう経緯で、与儀が仲間を殺したのかはわからない。それに関しては、与儀は明言していなかった。
 岳は、与儀を自分の駒にするために画策した。そして今回も、与儀を使ってなにかを企てている。
「以上です」
 篝は自分の考えと、互いに為すべきことを話し終えた。
「なにか、不明な点はありますか」
「なーいよ」
 楽しそうに、与儀は言った。
「篝って、頭いいんだねえ」
「そんなことはありませんよ。……ずるいだけです」
「んー。オレ、篝だったらズルくても好きー」
 きれいに、与儀の口元が笑みの形を作る。その唇が近づいてきて、頬に触れた。そのまま寝台に倒される。
「……あ!」
 なにかを思い出したように、与儀が顔を上げた。
「仕事の前は、ダメなんだっけ」
 真面目な顔で、言う。篝は思わず吹き出した。
「え、どうしたの」
 不思議そうに、与儀。
「いいえ、べつに」
 言いながら、そっと両手を背に回す。
「篝?」
「いいですよ」
 これは任務ではないのだから。
「ホントに?」
「ええ」
 心からの言葉を唇に乗せる。与儀はこのうえもなく、うれしそうに笑った。