水鏡映天  by近衛 遼




ACT7

 焼けただれ、崩れ落ちた砦の跡に、なまめかしい声が絶え絶えに流れる。
 それを発しているのが自分だということを、篝は認めたくなかった。この男に抱かれるのは否やもない。だが。
 もしかしたら、砦にはまだ和の細作がいたかもしれない。それなのに、その安否を確認することもできなかった。
 すべてが灰塵と帰したこの場所で、いま、自分は与儀の欲望のままに貫かれ、身悶えている。
 返り血で汚れた与儀の手が、体をまさぐる。がさがさとした感触。乾いたその匂いは、篝に遠い日を思い出させた。
 川縁の葦の一群。その陰で死んだように眠っていた幼い「御影」。
 自分は十二だった。ということは、与儀はまだ十歳。そんなころから、すでにいまと変わらぬ仕事をしていたなんて。
 与儀があの子供と同一人物だということは、わかっていた。学び舎を経ることもなく、いきなり「御影」の宣旨を受けた特例中の特例であるということも。
 頭では理解していた。が、重要なことを忘れていた。無意識のうちに、考えないようにしていたのかもしれない。
 心の奥底に生まれた、言いようのない哀しみ。雪解けの川に飛び込んで、汚れを洗い流す与儀を見たときの。
 冷えた体を包むのが、血まみれの服だけだなんて。
 篝は少年に、自分の上衣を譲った。そうせずにはいられなかった。あのとき……。
 鉄の匂いのする手が、肩を抱く。激しく突き上げられて、篝は喘いだ。
「外でするのって、いい?」
 耳朶を舐めるようにして、与儀が訊いた。
「ここ、こんなになってる」
 長い指がそれを確認するかのように動く。がくがくと下肢が震えた。強く掴まれ、篝はのどをひきつらせた。
「んっ……ん……あ…んっ…」
 焦らされて、荒らされて、狂わされて。
 篝は自分が素の状態に戻っていくのを感じていた。


 汚れた場所を拭う気力もなく、篝は瓦礫の中に横たわっていた。いままで必死で積み上げてきたものが、それこそ跡形もなく崩れてしまったような気がする。
 国のために、御門のために、一生を捧げるつもりでいた。他人を偽り、自分を偽る。そんな毎日であっても、「手」として人生をまっとうしよう、と。
 感情など、要らなかった。「手」であるかぎり、どんな出会いも場面もすべて、綿密に計算されたものでなくてはならなかったから。
 そんなふうに育てられた。学び舎に入る前から、ずっと。でも。
 あのときだけは、それができなかった。理屈ではなく計算もなく、自分はあの幼い御影に、わけもなく心を動かされてしまったのだ。
 ただ、哀しくて。苦しくて。愛しくて。
 その場かぎりの感情かと思っていた。事実、翌日にはそんな感傷はすっかり消えていたから。
 宿舎で与儀と再会したときも、別段、なんの感慨もなかった。ただ、目の前の状況に驚いただけで。
 それなのに、なぜいまになって、こんな気持ちになってしまったのか……否、気づいてしまったのか。
 すすと、土埃と、血まみれの手。
 あの日と現在を繋ぐものが、目の前に現れたからだろうか。
「だいじょーぶ?」
 ひょいと、黄金の瞳が覗き込んだ。
「水だよー」
 与儀は竹筒を手にしていた。井戸を潰したと言っていたくせに、どこから調達してきたのだろう。
「調子に乗っちゃって、ごめんねー。もう、途中で止められなくなってさあ」
 くすくすと思い出し笑いをしながら、与儀は言った。
「あんた、いつもより断然いいんだもん。こっちも燃えちゃったよー」
 印籠から丸薬を出して、差し出す。
「……なん…ですか」
 声がまともに出ない。まさか毒ではあるまいが、得体の知れないものを飲むわけにはいかない。
「なんて顔、してんのよ。オレがあんたをどうこうするわけないでしょー」
 与儀はまず、自分がその丸薬を服用した。
「疲労回復、滋養強壮の特効薬だよ。仕事が済んだら、さっさと帰んないとね」
 よく言う。まだきな臭い煙の上がっている中で、半ば強引に抱いたくせに。
「ほーら、早く飲んで。なんだったら、飲ませてあげよっか?」
 与儀は口に水を含んだ。
「……結構です」
 口移しなどされて、また体が目覚めてしまっては大変だ。篝は丸薬を受け取った。
「あーらら、残念」
 本当に残念そうにそう言って、与儀は立ち上がった。
「ま、いっかー。楽しい仕事だったしねー」
 楽しい、か。篝はきつく目をつむった。
 人の命を奪うこと。人を傷つけること。
 この男は、その意味を知らぬままここまで来てしまったのだ。だれひとり、この男を「人」として扱わなかったから。
 だからこそ、敵も味方も関係なく、すべてを滅してしまえるのだ。なんの迷いもなく、ためらいもなく。
 もし……。
 ふと、ある思いがよぎる。
 もしあのとき、自分がこの男ともっと深く関わっていたら、どうなっていただろう。川から上がってくるまで待って、手拭いで体を拭いて。家であたたかい茶の一杯も飲ませていたら。
 少しは違っていただろうか。この男も、そして自分も。
 そこまで考えて、篝は思考を中断した。
 詮ないことだ。過ぎたことをあれこれ思うのは。
 過去は変えられない。どんなにそれがつらくても、消し去ることはできないのだ。
 篝は深く息をついた。ゆっくりと目を開ける。
 どうやらこの丸薬は速効性があるらしい。いくらか、体が楽になってきた。もうしばらく休めば、なんとか動けるようになるだろう。
 与儀はなにやら歌を口ずさみながら、瓦礫の上を踊るようにして飛び跳ねている。
 均整のとれた美しい肢体。それをぼんやりと眺めつつ、篝はいままで封じ込めていた感情に心を乱されていた。