水鏡映天  by近衛 遼




ACT6

 出立は、夜。……の、はずだった。
 多少、早まるとは思っていたが、まさか昼餉のあとすぐに出発することになろうとは。
 莫の国との国境近くの物見砦。それが今回の目的地だった。
 その砦に莫の間者が潜入しているとの情報がもたらされたのが二日前のこと。砦が乗っ取られている可能性も否定できない。自分たちの任務は、莫の細作の暗殺と砦の解放だ。
 通常、御影宿舎から物見砦までは細作の足でも丸一日かかる。それを与儀は半日あまり駆け通しに駆けて、夜半には砦を見下ろす崖の上にいた。
「やーっぱり、ぶんどられちゃったみたいだねー」
 にんまりと笑って、与儀は言った。夜目にも鮮やかな金の瞳がらんらんと輝いている。
「門の上にいるの、みーんな莫のやつらだよ」
「では、この砦にいた和の者たちは……」
「やられたんじゃないのー。生かしておいても、手間がかかるだけだし」
 与儀は立ち上がった。
「んじゃ、正面から行くよー」
「え?」
「あいつらをやっつけるんでしょ」
「それはそうですが、まずは生存者の有無を確認しませんと」
 この砦には、少なくとも五十人の細作がいたはずだ。全滅したかどうかはまだわからない。
「そーんな面倒なこと、やってらんないよーだ」
 ぺろりと舌を出し、与儀は地を蹴った。見る間に、影が小さくなる。あわてて、篝はあとを追った。
 正面から、だと? 門を突破するつもりか。相手の兵力もわからないうちに。
 闇の中、赤黒い炎が浮かんだ。火術だ。炎が走る。大きな音がして、門があっという間に火炎に包まれた。
 次には風術。燃えさかる火の海の中に道を作る。わずかなその隙間に、与儀は飛び込んだ。篝も防御結界を張って、それに続く。
 門の近くには、いくつもの炭化した物体が散らばっていた。おそらく、門の上にいた者たちであろう。すでに人の形を留めないものもあった。
 砦の中から、次々と莫の細作たちが出てきた。が、彼らは与儀に触れることすらできなかった。強固な攻撃結界を張ったまま、さらに火術を繰り出す。
「はいはい。ジャマだよー。親玉はどーこかなっ」
 いかにも楽しそうに、与儀は技を放った。向かってくる者だけではなく、逃げる者に対しても。
 この男の頭の中には、きっと「莫の細作排除」という一点しかないのだろう。だからこんな、子供がおもちゃの城を壊すようなやり方をするのだ。
 与儀に従いながら、篝は周囲を注意深く窺っていた。
 和の細作が生存している可能性もある。捕われているとすれば、おそらく地下牢だろう。この騒ぎで、地下にいた莫の細作たちも出てきているはずだから、うまくいけば捕虜になっている者たちを救い出せるかもしれない。
 砦の見取り図は、しっかり頭に入っている。篝は地下牢への入り口に向かおうとした。
「あーっ、なにやってんの!」
 与儀の怒声。直後に、炎が真横を走り抜けた。熱い。防御結界を破られたらしい。
「ダメじゃんかー。オレの側を離れちゃ」
 与儀が真剣な顔をして、怒った。
「すみません。地下牢を調べに行ってきます」
「地下牢?」
「和の者が、捕縛されているかもしれませんから」
「そんなの、どうでもいいよー。ほいほいと捕まるようなヤツを助けたって、意味ないじゃん」
 与儀はそう言って、篝の腕を掴んだ。そのとき。
 背後に人影が現れた。いままで、気配もなかったのに。
「与儀!」
 思わず、叫んでいた。与儀は振り向きざまに小柄で喉元をかっ切った。鮮血が飛び散り、男は床に倒れた。
「やってくれるねえ。オレの結界に入り込むなんて」
 頬についた血を手の甲で拭い、与儀はにんまりと笑った。
「んじゃ、そろそろ本気、出そうかなー」
 篝は目を見張った。いままでのは「本気」ではなかったのか。掴まれた腕から、強烈な気が流れ込む。
「……!」
 全身が固まった。動けない。息もできない。
「はい。おしまーい」
 のほほんとした与儀の声。そして、それとは対照的な鋭い閃光と爆音。
 一瞬、意識が飛んだ。幾刻かの空白あと。
 篝はそろそろと目を開けた。その視界には。
 黒々とした瓦礫が、一面に広がっていた。


 結局、砦に和の国の生存者がいたかどうかはわからなかった。
 それどころか、莫の細作たちが何人いたのかさえも判然としない。遺体は完全に灰になっていたから。
 わかっていたはずだった。この男のことは。
 これが「銀狼のヨギ」。暗殺任務の成功率は百パーセント。ただし、ターゲット以外の者も巻き添えにする、と。
 そう。いままでの任務履歴を見ても、それは明らかだった。しかしここまで、完膚なきまでに滅してしまうとは。
 朝日が遠い山の向こうから姿を現わした。ごつごつとした岩の壁に、新しい日の光が当たる。
 白々とした光の中で、廃虚となった砦の黒さはいっそう際だって見えた。
 これを、どう報告すればいいのだろうか。自分はなにもできなかった。仮にも『水鏡』を拝命していながら。
 無力感が、ずっしりと肩に食い込んだ。御門の「手」として、自分なりに充実した日々を過ごしていると思っていたのに。
 いまだくすぶっている砦の跡に、篝は合掌した。自分でも、どうしてなのかはわからない。ただ、そうせずにはいられなかった。
「まずったなー」
 与儀が、なにやらぼやいている。
「井戸まで潰しちゃったよー。これじゃ、手も洗えやしない」
 ぶつぶつと文句を言いながら、篝に近づく。
「ま、いいか。もう乾いてるし」
 血で汚れた手が、篝の肩にかかった。
「ねえねえ。しようよ」
 篝は耳を疑った。しよう、って……ここで、か?
 眩しいばかりの朝日の中、幾多の命が失われた瓦礫の前で。
 反射的に、かぶりを振った。いくらなんでも、そんなことはできない。そう。たとえ、それが「任務」だとしても。
「えー、どうしてよー。仕事は終わったじゃない」
 唇をとがらせて、与儀は言った。
「仕事が済んだら、いいって言ったでしょ」
 するりと、腰に手が回る。血糊で茶色くなった手が。
「もう、お預けはイヤだからね」
 金色の瞳が、眼前に迫ってきた。
 頬に、耳に、首筋に唇が滑る。ところどころで、舌先も這い出して。
「なーんか、埃っぽいけど……」
 ちろりと流し目を送り、与儀はうれしそうに笑った。
「こーゆーのも、いいかもねー」
 衣服が、乱暴に剥がされた。