水鏡映天  by近衛 遼




ACT5

 篝が御影に配属されて、一週間が過ぎた。
「やっぱりさー」
 与儀は篝の首筋に唇を近づけて、言った。
「いい匂いがするよね、あんた」
「……そう……ですか?」
 いま、話しかけないでほしい。このまま崩れそうで、危ないのだから。
「うん。もう、病みつきよー」
 ぺろり。耳の下を舐められた。思わず、声を漏らす。
「ここ、直結してんのね」
 腰を抱えたまま、与儀はにっこりと笑った。無邪気な顔。中では、こんなにも荒れ狂っているというのに。
「じゃ、おまけ」
 舌先が、微妙な動きをした。刺激が背中から腰へと下りていく。
「は……っ…あ……」
 さらに深く、身を沈める。体を揺らす。
「んー。こーゆーのも、いいな。あんた、動いてくれるし」
 動くしか、ないじゃないか。こんなふうにされてしまったら。
 篝は与儀の体をまたいで、すわっていた。繋がった部分は、さらなる熱をほしがっている。
 背中に手を回し、角度を調節した。奥へ。
 全部、受け入れる。隅々まで感じる。この男の、いまを。


 この一週間、篝は北館の自室に帰っていなかった。いや、着替えを取りに行くぐらいのことはあったが、夜はずっと、東館の与儀の部屋にいた。
「篝は、オレのもんだよー」
 最初の日、御影の面々の前で与儀は宣言した。
「だって、ミカドがオレにくれたんだもーん」
 燭や飛沫はたいして驚きもしなかったが、夕餉の席にいたほかの者たちはそれぞれに複雑な表情をしていた。
 侮蔑の顔。同情の顔。呆れた顔。下卑た想像を巡らしている顔。
 ひとり、明らかに困惑の表情を浮かべている者がいた。与儀と抱き合っていた焦茶色の髪の男。名は岳(がく)といったか。御影の中で、飛沫に継ぐ地位にいるらしい。
「だーから、篝の部屋、東にしてよ」
 新入りを東館に入れるなど、前代未聞である。もっとも、新人といってもそれなりの力がある者は、着任直後に東館に入ることはあったが。
 当の与儀がそのいい例で、御影に配属された翌日に、ほかの者たちが何度も失敗していた難しい任務をたったひとりで成功させ、早々に東館に移った。
「与儀」
 燭が、ことさら重々しく口を開く。
「それは無理だ」
「えーっ、どうしてよ」
「桐野は、まだ『水鏡』としての任務を遂行していない。その段階で、棟を変わることはできんよ」
 細作の世界は実力主義だ。与儀はむっつりとしたまま、横を向いた。不本意なのだろうが、とりあえず燭の意見には逆らう気はないらしい。
「いましばらくは、北館にいてもらう」
 話を打ち切り、燭は夕餉の開始を告げた。


 その日の夜から、篝は与儀の部屋にいる。
 はっきり言って与儀は、新しいおもちゃを与えられて夢中になっている子供だった。ほかのことは、どうでもよくなってしまったらしい。
「えーっ、仕事なんか、行きたくないよー」
 八日目の朝。
 集会所で飛沫から暗殺任務を命じられた与儀は、そう言った。
「あ、しぶき〜。篝を盗る気でしょ」
 ずい、と、与儀は飛沫に迫った。
「いくら篝がいい声出すからってさあ」
 いつものことだが、周りにだれがいようが、何人いようが、発言を斟酌する気はないらしい。向けられる様々な視線。篝は無表情なまま、与儀の側にいた。
「話は最後まで聞け」
 飛沫は憮然として、言った。
「これは莫の国との国境線に係る重要な任務だ。本来なら昏一族の管轄だが、いまは台の国と北方諸国から目がはなせぬらしい。そこで……」
「そんなの、知ったこっちゃないよーだ。オレだって篝から目がはなせないもんねー」
 「目」だけじゃないけど、とうそぶきつつ横を向く。飛沫は深くため息をついて、
「安心しろ。今回は桐野も同行する」
「え、ホント?」
 ぱっと表情が変わる。
「桐野はおまえの『水鏡』だ。好きに使えばいい」
「うん。好きに使うー」
 うきうきと、与儀は答えた。
「で、それって、いつ」
「今夜、発ってくれ。復命は三日以内に」
 飛沫は命令書を差し出した。与儀はそれをちらりと一瞥して、
「わかった。じゃあね」
 一瞬で文面を読み取ったらしい。すたすたと戸口に向かう。篝は命令書を受け取って、あとに続いた。
 やっと、動ける。
 篝は内心、ほっとしていた。なにしろ、ここに来てから伽をするのが仕事のようになっていたから。
 むろん、与儀に近づき、その周辺を探るのが自分の任務だから、基盤作りとしてこの男の懐の入り込むことは必須条件だった。まさか夜な夜な同衾するとは思わなかったが。
 男同士の行為が成立することは知っていた。周囲にもその類の性癖のある者はいたし、任務上の必要に迫られてそういう関係を持ったこともある。が、これほど純粋に求められたことはなかった。
「ねえねえ」
 篝の首に腕を回して、与儀は誘う。
「今日はさあ、うしろからがいいなーっ」
 あけっぴろげな言葉。羞恥を感じる暇もないほどに。
「へえ、篝って、背中もきれいだねえ」
 腰を掴んだまま、与儀が言う。きれいだと? どこがだよ。こんな、傷だらけの体。
「バランスいいし、触り心地いいし。あ、これ、矢傷でしょ。かーなり深かったんじゃないのー。よく生きてたよねえ」
 くすくすと笑いながら、傷跡を舐める。
 肩甲骨から肩へ。そして項へ。ざわざわとした刺激に身をよじる。
「逃がさないよーだ」
 強い力で、肩を押さえられる。
 そんなふうにして、篝は夜を過ごしてきた。次々に出される要求に応えながら。
 昨夜までに、ひと通りの方法は試したのではなかろうか。さすがに、そろそろ限界かと思っていたので、まっとうな「任務」を振られたのはありがたかった。
「鳥居どの」
 講堂から外に出たところで、篝は言った。
「なーによ」
「装備はAランクとの命令ですので、いまから準備をしてきます」
「そんなの、どうでもいいよ。それより、早くしよー」
「は?」
「だーって、今夜は仕事があるじゃん。だから、いまのうちにしようよ」
 夜中まで、好き放題やってたくせに。
 篝はため息をついた。本当に、この男の思考回路はどうなっているのだろう。できるだけ意向に添うよう努力してきたが、今回ばかりはそうもいかない。
「申し訳ありませんが、それはできません」
「え、どうして」
 最初のときのように、与儀はきょとんとした顔をした。
「任務があるからです」
「わかってるよー。だから、いまのうちにさあ……」
「仕事の前に、気力体力ともに消耗するような行為をすることはできません。任務の成功率が下がりますから」
 真面目に、真剣に告げる。本来なら昏一族が投入されるほどの任務なのだ。生半可な覚悟ではいられない。
 与儀はしばらく何事か考えていたが、やがて大きく頷いた。
「じゃあさー。仕事が終わったら、いいの?」
「……はい」
「やったー。んじゃ、早いとこ済ませようねっ」
 与儀はひらひらと手を振って、東館へと走っていった。どうやら、自分も装備を整えなければいけないと気づいたらしい。
 あの調子だと、予定より早く出立するかもしれないな。
 篝は足早に、北館に続く渡り廊下を進んだ。