水鏡映天  by近衛 遼




ACT2

 桐野篝は、八代目御門の「手」として着々と実績を重ねていた。
 「手」とは、和の国の内部調査を専門に行なう御門直属の密偵で、その正体は極秘中の極秘とされた。なにしろ、ただの間者ではない。身内をスパイするようなものだから、「手」の身元は御門以下、長老やごく一部の者が知るのみであった。
 かつて、篝の父も御門の「手」のひとりだった。温厚な外見とは裏腹に、国に仇なすであろう不穏分子の摘発にかけては容赦なく、家族ぐるみで付き合っていた同僚の不正をあばいたこともあった。
 母は夫の本当の仕事を長いあいだ知らなかった。父が篝を後継者として育てることを決めたとき、はじめてその事実を告げられたという。
 最初のうち、母は息子を「手」とすることに反対した。「手」は、一生、周囲をあざむきつづけなければならない仕事だったから。
『細作であるかぎり、多かれ少なかれ他者をあざむいて生きていかなければならない。おまえも、それぐらいのことはわかっているだろう』
 淡々と、父は語った。
 かたくなだった母も、やがて首を縦に振った。すべてを納得したわけではなかったが、これ以上異を唱えても益はないと考えたらしい。
 そして、篝は父のもとで「手」となるべく教育を受けた。
 まずは学び舎の内部を探るため、学び舎に入る前にそれなりの力をつけておく必要があった。
 体術、結界術、そして情報収集にはかかせない記憶術や読唇術。
 篝は父を尊敬していたから、父から直に教えを受けるのは、なによりもうれしく誇らしいことだった。
 順調にそれらの課程を消化して学び舎に入学しようとしていたころ。父は特命を受けて国境の砦に赴任した。そして、そのまま還らなかった。
 細作の遺体は骨ひとつ残さず処分されるのがしきたりだ。篝のもとに戻ってきたのは、小柄だけだった。
 空の棺で葬儀を行なった、翌日。
 篝は登城を命じられ、はじめて本殿に上がった。謁見の間には、御門と長老たちがいた。
 なぜ自分が御前に召されたのか。不安と緊張に押し潰されそうになっていたとき。
『本日より、そなたは予の麾下に入る』
 ゆっくりと、しみ入るような声で御門が言った。
 麾下に? 一瞬、耳を疑った。父から細作としての教育は受けていたにしても、いまだなんの働きもしていない自分のような子供が、いきなり直属になるとは。
『そなたの父は優れた細作であった。こたびのことは、残念でならぬ』
 篝は拝礼した。強くなりたい。切実にそう思った。国のために、御門のために、もっと強く。
 その日から、篝は御門の「手」となった。


 総務部の事務員の中で、城の奥殿に入ることができるのは、篝だけだった。
「悪いなー、桐野。また文庫の資料がいるんだよ」
 同僚が頭をかきながら、言った。
「ん。で、なにがいるんだ?」
 篝は書きかけの書類を脇にやって、訊ねた。
「天角の砦の調査資料が、文庫にあるはずなんだけど」
「んー。あれはまだ表には出せないと思うけどな」
「全部じゃなくてもいいんだよ。補給物資の見積りを出すのに、参考にしたいだけだから」
「まあ、それならなんとかなるかな。持ち出しはできないから、閲覧して必要な部分だけ写してくるよ」
「助かる。今晩、おごるから」
「期待してる。ついでに、これもやっといてくれるとうれしいんだが」
 ぴらり、と書きかけの書類をつまむ。同僚はにんまりと笑って、
「お安い御用だぜ」
「じゃ、行ってくる」
 軽く手を上げて、篝は事務局をあとにした。


 篝が総務部の事務局に配属されて、二年になる。細作になってしばらくは諜報局にいて、間者として周辺諸国を渡り歩いていた。
 もっとも、間者といっても諸国の内情を探るだけではなく、ほかの間者の身辺調査が主な任務であったのだが。
 他国に潜入している間者の中には、ミイラ取りがミイラになって、逆に取り込まれてしまう者もいる。とくに「草」と呼ばれる者たちの中には、明らかに二重スパイのような者もいた。
 「草」とは、その土地に居を構え、国人として暮らしながら情報を集める諜報員のことで、大抵は怪我をしたり高齢になって現役を引退した細作がその任に当たっていた。
 長くひとつ所に住めば、情もわく。それぞれに事情はあるにしろ、裏切りは裏切りだ。篝は「手」として、それらの事実を御門に報告した。
 その後、彼らがどうなったかのは知らない。仕事が終われば、すみやかに引き上げる。それが「手」の定石だったから。
 むろん想像はつく。造反した者を許すほど上層部は甘くない。失敗は、死。裏切りも、死。それが掟だ。
 事務局に来てからも、篝は各部署の事務方の人間を調べていた。
 弱みを握られて機密を漏らしている者はいないか。不正を働いている者はいないか。あるいは国に対して不満を持っている者はいないか。
 それらを探るために、篝はあらゆる部署のあらゆる階層の者たちと交流を深め、皆からいろいろな相談事をされるまでになった。来週あたり、経理課の横領の件を上奏しなければならない。少なくとも課長は更迭。芋づる式に職員も何人か、処罰されるだろう。
 それが終われば、いまのところ注意すべき人物はいない。年明けまでは、しばらくゆっくりできそうだ。
 文庫で天角の資料を閲覧していると、戸口に人影が現れた。
「……八代さま」
 篝は資料を閉じて、立ち上がった。胸に手を当て、ひざを折る。
 八代目御門は、ゆったりとした足取りで文庫に入ってきた。
「急なことだが」
 低い声で、御門は言った。
「そなた、しばらく『御影』に行ってくれぬか」
「は?」
 驚いて、顔を上げる。いままで国の内外を問わずあらゆる場所へ派遣されたが、さすがに御影の本部ははじめてだ。
「ご命令とあらば、いずれへなりとも参りますが……」
 御影の仕事はおおむね把握している。中に入っても、それなりにやってはいけるだろう。
「して、わたくしの役目は」
「御影宿舎で、なにかしら不穏な動きがあるらしい」
「謀反の兆しでも?」
「うむ。御影長が内々に知らせて来おってな」
 長の話では、御影の中でも飛び抜けた成果を上げている者の周りに人が集まり出しているそうだ。
「では、その者を調べればよろしいんですね」
「かなり厄介なやつだがな」
「厄介?」
「あれは……人ではない」
 御門は苦渋に満ちた顔をした。卓の上に、数葉の書類を置く。
「概要はこれに。明日にでも出立せよ。期限は三カ月だ。御影長にはそなたのことは話してある」
「御意」
 篝はふたたび頭を垂れた。御門がゆっくりと出ていく。
 御影本部での任務。それも相当、難しいもののようだ。篝は卓の上の書類を手にとった。目指す相手の名を脳裡に刻む。
 鳥居与儀。
 なるほど。「銀狼のヨギ」か。
 歩いたあとには屍の山と血の海。そう噂される、御影一の手練れ。
 書類にざっと目を通し、消滅させる。たしかに厄介だが、行くしかない。自分は御門の「手」なのだから。
 固く唇を結び、篝は戸口へと向かった。