父が国境近くの砦で殉職した直後。
 桐野篝(きりの かがり)は密かに、和王である八代目御門の「手」となった。
 もっと強くなりたい。父がそうであったように、和の国の将来のために役に立つ人間になる。
 父が遺した小柄の前で、少年は誓った。




水鏡映天  by近衛 遼




ACT1

 まだ、ほんの子供のようだった。
 十二歳の自分が見ても、それは「子供」としか表現できなかった。
 細い手足は血で汚れている。すすでいくらか黒ずんでいる銀髪が、川面を渡る風を受けて揺れていた。
 余所の国から流れてきたのかもしれない。和の民は黒髪黒目の民族だ。薄い色の髪や目の者はめったにいない。
 いや、例外がひとつ。和の国にも銀髪蒼眼の少数民族がいた。生まれながらに遠見や透視などの特殊能力を持つ昏(こん)一族。彼らの多くは国境の要衝で、おもに防衛任務に就いている。ゆえに、都でその姿を見るのはまれであった。
 死んでるのかな。
 そっと、篝は近づいた。
 兵部付属の学び舎からの帰り。定期の筆記試験をつつがなく終えて、家に戻る途中だった。
 死んでいるのなら、ちゃんと埋めてやらないと。人は土に還り、命を巡らせる。篝の両親は、そう言っていた。
 生死の確認ぐらいは、朝飯前だ。これでも細作……もとい、細作のタマゴなのだから。
 川縁の葦の一群の陰に横たわる小さな体。篝はひざまずいて、首筋に手をのばした。
「……っ!」
 突然、手首を掴まれた。いまのいままで微動だにしなかったその子供が、弾けたように飛び起きて篝を横に押し倒す。
 目の前に、小柄があった。
 しまった。やられる。
 反射的にもう一方の手をかざす。
「……なあんだ、コドモじゃん」
 甲高い声が降ってきた。篝は、そろそろと手を下ろした。
「気配の消し方とか足運びが妙にうまかったから、警戒しちゃったよ」
 銀髪の子供は、小柄をつきつけたままそう言った。光の具合によっては金色にも見える黄土色の瞳が、篝を見据えている。
「あんた、だれ」
「おまえこそ……」
 銀髪だけでもめずらしいのに、この目の色はどうだ。いったい、どこの国の出身なんだろう。昏一族ではないようだが。
「オレは『御影』だよ」
「……子供なのに?」
「コドモが御影やっちゃいけないの」
「そうじゃないけど……」
 どう見ても自分よりは年下だろう。それが、もう御影の宣旨を受けているとは。
 もっとも、自分のような細作もいる。見かけだけで判断してはいけない。
 「御影」とは、公にできない暗殺や工作を行なう部署の総称で、転じてその構成員そのものを差すこともあった。
「あんた、もしかして学び舎の生徒?」
 幼い御影は小柄を引いた。篝は頷いた。
「へえ。最近の学び舎って、レベル高いんだねえ。まだ実戦にも出てないのに、たいしたもんだよ」
 誉められていると思っていいのだろうか。いや、「学び舎の生徒」としての「気」を作れなかったのだ。まだまだ自分は、修業が足りない。
 篝は、いまだに自分の上にのしかかっている子供を見上げた。
「いつまで乗ってるんだ。どけよ」
 わざと、ふてくされた言い方をする。
「はいはい」
 銀髪の子供は小柄を仕舞って、ひょいと飛びのいた。篝はのっそりと起き上がって、
「ケガ、してるんじゃないのか」
「え?」
「だいぶ、血が……」
「あ、これね。大丈夫だよー。ぜーんぶ返り血だから」
 へらへらと笑いながら、言う。
 返り血だって? 篝はまじまじと、子供を見つめた。
 これだけ大量の血を浴びるなど、いったいどんな任務だったのだろう。
「さすがに疲れてさー。血の臭いもぷんぷんするし、水浴びしようと思ったんだけどねえ。なーんか、眠くなっちっゃて」
「……まだ三月だぞ」
「それがどうかした?」
「どうって……」
 川の水は冷たい。溜め池などでは、薄氷の張る日もあるぐらいだ。
「おかげで、目が覚めたよ。体洗ってくるねー」
「え、おい、おまえ……」
 篝が止める間もなく、その子供は服を脱いで川に飛び込んだ。
 雪解け水のせいで、川の水位はかなり上がっている。そんな中にいきなり飛び込んで、平気なのだろうか。
 篝はいくぶん動揺しつつ、川面を見つめた。
「ふわーっ、きっもちいい!」
 川の中ほどに、銀髪が現れた。
「あんたも入る?」
 胸まで水につかった状態で、叫ぶ。篝はかぶりを振った。
「ざんねーん。じゃあねーっ」
 ふたたび、流れに身をまかせて、ばしゃばしゃと遊ぶように泳ぐ。
 よっぽど、心臓が丈夫なんだな。篝はそう結論づけた。
 あれだけ元気なら、心配はないだろう。そう思って引き上げようとしたとき。
 篝は子供が脱ぎ捨てた衣類に目をやった。
 ぼろぼろの、血だらけの服。あの子は、もう一度これを着るのか。
 なんとなく、悲しくなった。任務だから仕方ないにしても。
 細作の仕事とは、詰まるところ、こういうことだ。そう。わかっている。いつか自分も、全身に血を浴びなければならないのだ。
 篝は上衣を脱いで、その横に置いた。自分の方がひと回り大きいので、とりあえずこれを羽織れば、膝上までは隠れるだろう。汚れた服よりは、いくらかましだ。
 早春の光の中、銀髪の子供はまだ川の中にいる。篝はそっと、その場を離れた。