水鏡映天  by近衛 遼




ACT17

 もしかしたら。
 それは、ほんのわずかな希望だった。
 もしかしたら、道が拓けるかもしれない。自分と与儀が、ふたたび出会える道が。


 研究所から御影宿舎へ戻る日が来た。
「あー、もう、長かったなー。ゆうべはオレ、わくわくして眠れなかったよー」
 まるで遠足へ行く前の子供のように、与儀は言った。
 病衣から御影の標準服に着替えながら、篝は帰還後に待ち受けているであろう事態を予測した。自分はおそらく、「水鏡」を解任されるだろう。もう「手」としての仕事は終わったのだから。
 そして、当然ながら与儀は御影宿舎に残される。そのとき。
 自分がどうすべきか。どうしたいのか。すでに心は決まっている。
 ほんのわずかの希望と、全身を押し潰しそうなほどの絶望。「人」であるために、自分はその希望に賭ける。
 この男を、愛しているから。
「どしたの、篝」
 無邪気に、与儀は篝の顔を覗き込んだ。
「具合、悪いの? 鴫を呼んでこようか」
「いいえ。大丈夫ですよ」
 にっこりと笑って、篝はベッドから立ち上がった。
「おれも、ゆうべはあまり眠れなかったので」
 それは事実だった。体を休めるために目をつむってはいたが、頭はずっと起きていた。今日の日のことを考えて。
 あらゆる可能性を。あらゆる場面を。なにが起こっても、自分は「人」としての道を目指す。
「わー、篝も? うれしいなあ」
 本当にうれしそうに、与儀は篝に抱きついた。ぎゅっと手に力を込める。いつものように大きく息を吸い込んで、
「んー。やっぱり、いいなあ。篝の匂いって」
 ため息まじりに、言う。
「はじめてだったんだー、オレ」
「え?」
「だれかに、なにかをもらったのって」
 言葉の意味を計りかね、篝は首をかしげた。与儀はそっと身をはなし、
「篝は、オレに『アオ』をくれた」
 アオ。藍色の上衣。少年の日に、篝が与儀に与えたもの。
「オレ、あんたになんにもしてないのにさ。それでも、あんたはくれた」
 懐かしそうに、与儀は篝を見つめた。
 そういうことか。篝は納得した。
 この男は、人を殺すことでしか認められなかった。周りの者は皆、この男が「仕事」をしたときにだけ、まっとうに接していたのだ。
 いや、「まっとうに」という言い方は適切ではない。結局は、だれもこの男を「人」として扱わなかったのだから。
 それでも、だれかに見ていてほしかったのだろう。だからこの男は人を殺し、「ご褒美」を求めたのだ。
 それは金や物だけではなく、人と体温を交わすこと。
 この男にとって、だれかと肌を重ねることは、生きているという確認の儀式だったのかもしれない。相手はだれでもよかった。自分に触れてくれるのならば。
「篝だけだ。オレに、なにもかもくれたのは」
 そうだよ、与儀。全部、あげる。おれも、はじめてだったんだから。だれかに、なにかをあげたのって。
 なんの計算もなく、打算もなく、見返りもなく。そんなふうに、だれかになにかをあげたことなんかなかった。おまえに会うまでは。
 おまえに会えてよかった。生まれてきてよかった。
 おれは、決して後悔しない。これから先、なにが起ころうとも。
 廊下に、人の気配。
 来たな。篝は唇を結んだ。与儀もそれに気づいたらしい。不審げに戸口を見遣る。
「入るぞ」
 燭だった。ゆっくりと、扉が開く。
 与儀のまとう「気」が変わった。明らかな敵意がみなぎる。
「なーによ、燭。取り巻きゾロゾロ引き連れて、迎えに来てくれたわけ?」
 毒を含んだ口調。燭は憮然とした表情で、
「まあ、そういうことだな」
 背後には、御影でも指折りの手練れが並んでいた。廊下にも何人かいるようだ。さらには、この建物の外にも。
 一個部隊を率いてきたか。篝は奥歯を噛み締めた。相手が「銀狼のヨギ」ならば、それも不思議ではないが。
 ここを出れば、自分は里に召還される。それははじめから決まっていたこと。そしておそらく、この男は自分を放すまい。御門と燭は、御影の一部隊を注ぎ込んでも与儀を阻止するつもりなのだ。
 自分ごときに、大層なことだ。「手」などほかに、いくらでもいるだろうに。
 御門の「手」としては、冥利に尽きる。が、そんなことはどうでもいい。
 もう決心はできている。さあ、どう出る。燭。
 篝はまっすぐに燭を見据えた。燭は一瞬、眉をひそめた。飛沫から報告は受けているだろうに。
「桐野」
 御影の長は、重々しく口を開いた。
「八代さまから、直々にお言葉を賜った。事務局に復職するように、と」
 直球だった。与儀は篝を庇うようにして、燭と対峙した。
「認めない!」
 全身をすさまじい「気」が包む。焼けつくほどに熱く。
 燭たちが防戦の構えをとった。まさか、室内で戦うつもりか。建物ごと吹き飛ぶかもしれない。
 燭がじりじりと手を上げた。やる気だ。真っ向から、与儀と。
 外へ抜ける道を作る暇はない。与儀はすべてを滅してでも、この身を放しはしないだろう。そうなれば、もう「人」に戻ることはできない。
 封じなければ。与儀の攻撃を。「銀狼」の暴走を。
 与儀の背に隠れるようにして、篝は印を組んだ。北門の折りよりも、さらに複雑で強固な反結界を張るために。
「なに!?」
 燭が叫んだ。与儀もそれに気づいたようだ。
「篝!」
 驚いたような顔をして、振り向く。篝は微笑んだ。


 背中、ほんとに無防備だったね、与儀。あの瞬間なら、おれにでもおまえの首が獲れた。
 それほどに、おまえはおれを信じているのか。ならば。
 信じてくれ、与儀。もっと、おれを信じて。
 おれはおまえと一緒にいたい。おまえとともに生きていきたい。
 「人」として。


『封塞!』
 封印結界。反結界。さらに、その内側での攻撃結界。
 自爆覚悟で、篝はその禁術を使った。