水鏡映天  by近衛 遼




ACT16

 自分が着ていた、藍色の上衣。
 篝はそれを川縁の葦の側に置いた。雪解けの川で血を洗い流すしかない幼い御影。あの子が、川から上がってきたら。
 冷たい体を包むものを与えたかった。たいしていい品ではない。古着屋で買った、色あせた上衣。それでも。
 返り血を浴びた服よりはましだ。篝はそう思った。
 それが、「アオ」。
 与儀は、その上衣に「アオ」という名前をつけて、ずっと大切にしてきたのだ。苦しいときに、寂しいときに、それを抱きしめて。
 無意識のうちに、ひと晩中、服の襟をかじり続けたこともある。そうやっていつのまにか、「アオ」はぼろぼろになっていった。
 長い年月のあいだに原形を留めないまでになってしまっても、かすかに残る匂いをよすがに、与儀は「アオ」にすがっていた。それが。
 あるとき、与儀は「アオ」を失った。
『なんだよ、これ。きったねえな』
 隣室の男がそう言って、「アオ」を窓から捨てたのだ。土に汚れた「アオ」には、もう与儀を慰めてくれる匂いはなかった。そして、与儀は男を殺した。
 ぽつぽつと語る与儀の言葉のひとつひとつが、耳の奥に染み入ってくる。
 だれも、知らないだろう。
 早くに才能を開花させた「御影」。敵も味方も関係なく、次々と手にかけていくこの男が、潜在意識の中で孤独や恐怖と戦っていたなどと。
 どれほど深い闇だったことか。だれもいない、冷たい空間。道標もない長い長い道を、たったひとりで歩いてきたのだ。全身に血を浴びながら。
 側にいて。
 そう望むこの男の、願いを叶えたい。けれどそれは、自分が「手」である限り無理なのだ。そしてまた、許しなく「手」のつとめを放棄することは、御門に対する裏切り行為。
 自分は断罪されるだろう。そうなったとき、この男はどうするだろう。国に仇なすだろうか。御門にさえも刃を向けて。
 ともに滅びるのもいいかもしれない。
 ふと、そんな気になる。ふたりとも、「人」として。
 いいですよ。
 そう言おうとした、そのとき。
 なんの前触れもなくドアが開いた。病室なのだから、あたりまえだが。
「お話中のところ申し訳ありませんが……」
 鴫だった。与儀はぎろりと、戸口をにらんだ。
「そう思うんだったら、ジャマしないでよね」
 険のある声。それに動じるふうもなく、鴫は枕辺に近づいた。
「採血させていただきますよ。今後の治療方針を決めるのに必要ですから」
 なまじの者ならそれだけで圧死しそうなほどの与儀の視線を受けつつ、鴫は黙々と職務を遂行した。
「はい、けっこうです。……鳥居どの、あなたもですよ」
「え、なにが」
「採血です。あなたの遺伝子研究は最優先事項のひとつなんですよ。年に一度は検査に来てくださいと申し上げたのに、あなたはこの三年、梨のつぶてで」
 与儀は御影の宣旨を受ける前、しばらくここで暮らしていたらしい。
「だーって、かったるいんだもん。いろいろカラダ、いじくりまわされてさあ。しかもノーギャラだし。そんなの、やってらんないよー」
「ここでの検査は、任務ではありません。義務です。したがって、手当は出ません」
 真面目な顔で、言う。
「桐野どのがここで療養しているあいだに、あなたの検査も行なうよう命じられています。不服があるなら、御影長に直訴してください」
「え、じゃあ、篝が治るまでオレもここにいていいの」
「そういうことになりますね」
「やったあ。それなら、いいよ。血なんか、いっくらでも採ってー」
 うきうきとした様子で、腕を差し出す。
 まったく、よく与儀の性格を把握している。篝は感心した。この男には「手」に匹敵するほどの洞察力がある。
 軽々しい真似はできないな。
 先刻、胸をよぎった思いを脇へ押し遣り、篝は身を横たえた。


 反結界の中で攻撃を受けたにしては、ダメージが少なかったらしい。
 十日ほどで、篝は外に出られるようになった。軽い散歩から始めて、徐々に体を慣らしていく。鴫は綿密な治療計画をたてていて、もちろん現場へ復帰するためのリハビリもその中に含まれていた。
「本当に、よく鍛えておいでですねえ」
 まもなくひと月になろうかというある日、鴫がしみじみと言った。
「この調子なら、来週にでも帰還が叶うでしょう」
 帰還。すなわち、任務の終了だ。
 いよいよだな。篝は思った。いよいよ、決着をつけねばならない。
 自分の心に。そして、与儀の心に。
「桐野どの」
 ややゆっくりとした口調で、鴫が言った。
「はい?」
「いまから申し上げることは、私の個人的な意見として聞いてください」
 カルテを脇に置き、べつのファイルを手にする。
「鳥居どのの検査結果に、これまでとは著しく異なるデータが出ました」
「それは、どういう……」
「心理テストの、とくに対人関係に関する項目です。それから、以前はまったくといっていいほどなかった自己抑制能力の数値が上がっています」
 鴫はファイルをぱらぱらと見ながら、続けた。
「『御影』の力のコントロールは、安定した精神状態のもとでこそ成るものです。いままでは、ごく限られた用途にしか使われてこなかった能力を、今後はもっと幅広い分野で活かしていけるかもしれません」
 与儀の力が、御影内部だけではなくほかにも必要とされるかもしれない、と?
 篝は目の前にすわる医師の顔を見つめた。あいかわらず、表情から感情を読み取ることは難しい。が、鴫が与儀をずっと案じてきたということは、容易に察せられた。
「桐野どのには桐野どのの事情があるでしょう。私などが口を出すことではありませんが……」
「いいえ」
 篝は微笑した。
「お気遣い、いたみいります」
 飛沫から、だいたいの経緯は聞いているのだろう。そして鴫はあの男と自分の様子を注意深く見守ってきた。
 あのとき、鴫が病室に来たのも偶然ではなかったのかもしれない。与儀から「アオ」の話を聞いたとき。
 もし彼が入ってこなかったら、自分は与儀の激情に押されてすべてを捨ててしまっていた。そう。もう少しで「諾」と口にするところだったのだ。
 「人」として滅するなら、それもいい。そう思ってしまった。
 でも。
 いまは違う。闇の向こうに、先へ続くものが見えたような気がするから。
「たっだいまーっ」
 勢いよく扉が開いて、与儀が部屋に入ってきた。
「あーっ、鴫! 検査室にいないと思ったら、こんなとこにいて! 篝に用があるときはオレに話通せって言っただろ」
 いつも通りのクレームに鴫は動じるふうもなく、
「先日の検査結果をお知らせに来ただけですよ。来週あたり、おふたかたともここを出られそうですし」
「え、ほんと?」
 ぱっと表情が変わる。与儀は篝に抱きついた。
「よかったー。やっと帰れるんだね」
 無邪気な声。
「篝と一緒にいられるならどこでもいいけど、やっぱ、ここじゃなーんにもできないもんねー」
 たしかに、いくら体調がよくなったとはいえ、監視カメラのあるところで同衾する気にはなれない。与儀も篝の体を気遣ってか、このひと月のあいだ、口付け以上を求めてはこなかった。
 本当に、変わった。以前なら、たとえ人目があったとしても、欲望のままに行動していただろうに。
 これまでのあれこれを考えながら、篝はそっと、与儀の背に手を回した。