水鏡映天  by近衛 遼




ACT15

 愛すること。
 ある者にとっては至極簡単なことで、またある者にとっては永劫に叶わぬ夢。
 愛せないと思っていた。もう、だれかを、これほどまでには。
 両親を相次いで失い、ひとりで生きていかなければならなくなってから。
 愛だけではない。どんな感情も、生きていくためには邪魔だと思っていた。自分は御門の「手」となったのだ。いついかなるときも、盤上の駒を見つめるように人と対していかねばならぬ。
 それはある意味、正解だった。そうしていなかったら、自分はとうの昔に死んでいた。学び舎で、あるいは卒業後の研修中に、もしくは実戦に出てすぐに。
 学び舎では、卒業試験の内容をあらかじめ教える見返りに金品を要求する教師に近づいたし、実習期間中は研修生の任務評定を巡る不正をあばくために指導教官の控室に罠を張った。実戦に出てすぐのときは、それこそ一歩間違ったら確実に死んでいた。
 国境近くの城攻め。それを仕掛けていた間者のひとりが、寝返ったのだ。その情報を都に持ち帰る際に、篝は毒矢を受けて倒れた。いくらかは毒物耐性があったとはいえ、刺さった場所があと少しずれていたら、命はなかっただろう。いつだったか、与儀が指摘したように。
『あ、これ、矢傷でしょ。かーなり深かったんじゃないのー』
 たしかに深かった。脊髄や内蔵に損傷がなかったのが奇跡だと、医療棟の医師は言った。いかに毒物耐性があるといっても、臓器に達していたら危なかったから。
 そのほかにも、数多くの修羅場をくぐりぬけてきた。父のように、国のために役に立つ人間でありたかった。「手」として御門に認めてもらいたくて。
 そこまで考えて、篝はあらためて納得した。
 自分は、与儀と同じなのだと。
 「ご褒美」がほしくて人を殺し続けてきたあの男と、自分はなんら変わるところはない。「手」であることを唯一の価値としてきたのだから。
 多くの出会いがあったのに、どれひとつ自分のものにできなかった。しなかった。すべては「手」の仕事に直結していたから。
 好ましいと思った少女もいた。生き方に魅かれた先輩や同僚もいた。だが、そのどれもが頭の中で、いつのまにか分類されていった。「使える」人物か、「使えない」人物か。あるいは「必要」な人物か、「不要」な人物か。
 無意識のうちに相手を分析してしまう。感情とはべつの次元で。
 与儀のことも、そうだった。この男の内側に入るには、どうすればいちばん効果的か。
 あらゆるパターンを考えた結果、決断したのだ。体を与える、と。
 思った通り、与儀はいままでになかった「おもちゃ」に没頭した。飢えた子供のように、貪るように、与儀は篝を抱いた。
 うまくいったと思った。これで、この男を「使える」と。だが。
 つくづく、人とは不可思議なものだ。感情など、とうに捨ててしまったと思っていたのに。
 瓦礫と化した砦で血まみれの腕に抱かれたとき、篝はたったひとつ残っていた心の扉を開けてしまった。雪解けの川の中で、手を振っていた幼い御影。明るい声と、無邪気な笑顔。幾多の命を奪ってきたとはとても思えなかった。
 ひとたび思い出してしまってからは、もう歯止めがきかなかった。次々と生まれてくる感情。苦しくて、哀しくて、愛しくて。一途に自分を求めてくる与儀に、なにもかも差し出してもいいと思った。命までも。
 愚かだろうか。自分は。
 けれど、もう自分を偽ることはできない。だから、もう「手」ではいられない。
「かがり〜」
 枕元で声がした。ゆっくりと目を開ける。与儀だった。
「……おはようございます」
「うん。なーんか、オレ、だいぶ長いこと寝てたみたいねー」
「そうですね」
 きのうの昼からだから、二十時間ちかく眠っていた計算になる。
「オレが寝てるあいだに飛沫が来たんだって?」
「ええ」
「身動きとれないからって、ヘンなことされなかっただろうね」
 あいかわらずだな。篝は苦笑した。
「大丈夫ですよ」
「だったらいいけどさー。ねえねえ、篝。宿舎に戻ったら、今度こそ東に移ってきてよ。もう燭や飛沫に文句言わせないから」
 たしかに、謀反を未然に防いだのだ。東館に移るに十分の働きだろうが、それはつまり、篝にとっては「手」としての任務が完了したことを意味する。
「鳥居どの」
 篝は重々しく、言った。
「たぶん、それは無理です」
 この男をごまかすことはできない。どんなにつらくても、事実を伝えなければ。
「ここを出たら、おれは都に呼び戻されるでしょう」
「どうしてよ。篝はオレのものなのに」
 信じられないといった様子で、与儀は叫んだ。篝はそろそろと身を起こした。体中が痛い。やっとのことでベッドの上に起き上がり、与儀の双眸をしっかと見据えた。
「おれの仕事は、御影宿舎で不穏な動きをしている者を探ることでした。その仕事が終わったからには、もうここにはいられません」
「仕事って……篝はオレの『水鏡』なんでしょ。ミカドも、篝をオレにくれるって……」
 与儀は混乱しているようだった。それはそうだろう。これからも、いままでのように過ごせると思っていただろうから。
「あなたに接近して、宿舎の内情を調べる。それが八代さまからおれに下された命令でした」
「めい……れい?」
 外つ国の言葉のように、与儀は呟いた。頬は蒼白だ。
 殺されるかもしれないな。篝は思った。でも、それも仕方ない。自分はこの男を欺いていたのだから。
 ずっと欺き続けるのなら、やさしい言葉を連ねることもできる。口付けと抱擁。それだけで、この男は子猫のようにおとなしくなるだろう。
 以前の自分なら、そうしていた。任務を滞りなく遂行するために。すみやかに現場から姿を消すために。けれど。
 あなたには、すべて知ってほしい。おれが何者なのか。どんなことを考えて、なにをしてきたのか。そのうえで断じられるのなら、本望だ。
「うそだ」
 ぽそりと、与儀は言った。幼な子のように顔を歪めて。
「うそだ。うそだ。……うそだよっ!」
 がっしりと、篝の肩を掴む。
「だって、あんたは『アオ』なんだろ?」
 アオ? 篝は首をかしげた。そういえば北門で意識を失う直前にも、その言葉を聞いた記憶がある。
「アオはそんなことしない。アオは、オレと一緒にいてくれる。アオは……」
 強く抱きしめられた。痛い。体の傷ではなく、心が。
「与儀……」
 背に手を回した。それしか、できなくて。
「アオ……アオ……」
 何度も、繰り返す。首筋に顔を埋めて。篝はじっとしていた。与儀が落ち着くまでこうしていよう。「アオ」という言葉の意味はわからないけれど。
 だれかの名前だろうか。きっと、与儀にとって大切な人だったんだろう。それと自分がどのように結びついているのか、判然としないが。
 どれぐらいそうしていただろうか。与儀が顔を上げた。
「……え?」
 篝は目を見張った。
 金の瞳が濡れていた。それは、まぎれもなく涙。
「与儀」
 すぐ側にある瞳に語りかける。
「『アオ』というのは……」
「あんただよ」
 端的な答え。
「おれが……『アオ』?」
「あんた、オレにくれたじゃないか。あのとき……」
 一瞬、遠い目になる。
「川で、会ったとき」
 まさか。
 思い出したのだろうか。この男も。自分たちがはじめて出会ったときのことを。
 アオ。青。
 ……そうか。篝の頭の中で、次々とパズルのピースが埋まっていく。あのとき、篝が与儀に譲った上衣は藍色だった。だから、与儀は……。
「もしかして、あの上衣のことですか」
 確認する。与儀は頷いた。
「アオは、いつもオレと一緒にいてくれた。ねえ、篝。篝も、ずっとオレの側にいてくれるでしょ」
 ふたたび、きつく抱きしめられた。与儀が大きく息を吸う。
「アオの匂いだ。……篝の匂いだ」
 しあわせそうに、与儀はそう言った。