水鏡映天  by近衛 遼




ACT14

 呼んでいる。全身全霊をこめて。
 呼んでいる。自らの命すら引き換えにするほどに。
 幼い与儀と、いまの与儀。どちらも、必死な顔をして。
 ああ。そこにいたのか。与儀。
 よかった。いてくれて。これで、おれも戻ることができる。戻ってみせる。おまえのいる場所に。


 視界が徐々に開けた。眩しい。明るすぎて、なにも見えない。
 数瞬ののち。やっと世界は色を為した。
 銀色。金色。白い頬。
「篝!」
 目の前に、よく見知った顔があった。泣き笑いの、少し歪んだ表情。
「篝っ、オレだよ。わかる? ねえ、わかる? なんとか言ってよっ!」
 ゆさゆさと肩をゆすられた。首のうしろと背中が痛い。思わず呻いた。
「あ、ごめん。痛いよね。あちこち傷だらけだし……ごめんね、篝。オレのせいで……」
 幼な子のように、与儀は唇を噛み締めた。
 ああ、そうか。与儀が術を暴走させそうになって……。篝はわずかにかぶりを振った。
「あなたの……せいじゃないです」
 なんとか、声が出た。
「篝……」
 与儀は鬱金の眼を見開いた。
「だから、そんな顔をしないでください」
 そろそろと、手を上げる。指先が、与儀の頬に触れた。与儀はその手を掴んで頬ずりした。
「……篝だ」
 目を閉じる。てのひらに口付ける。
「篝の匂いだ」
 しばらく、与儀は動かなかった。何度も、何度も深呼吸する。自分が手にしているものを確かめるかのように。
「意識が戻ったようですね」
 戸口に、白衣の男が現れた。
「鴫(しぎ)!」
 与儀はぱっと顔を上げた。
「このヤブ医者! なーにが『明日にでも目を覚ましますよ』だっ。もう三日目じゃないか!」
 かなり真剣に怒っている。大丈夫だろうか。少し心配になった。いま、また術が暴走してしまったら、今度こそアウトだ。
「外から見た限りでは、二十四時間もすれば覚醒すると思ったのです。これまで、『銀狼』の術をまともに受けて生き残った事例などありませんからね。傷の状態で判断するしかなかったのですよ」
 淡々と、白衣の男は述べた。年の頃は五十半ば。頭髪にはかなり白いものが混ざっていて、なんともやさぐれた印象だ。
 与儀が「鴫」と呼んだ男は、つかつかとベッドの横まで来て、おもむろに篝の手を取った。
「あーっ、なにすんだよ! 篝はオレのもんだぞっ」
「わかってますよ。脈をとるだけです。医療行為の邪魔をしないでください」
 時計を見つつ、言う。与儀は唇をとがらせて、横を向いた。
 「銀狼のヨギ」にこんな物言いをするとは。篝はまじまじと、自分の脈を取っている男を見上げた。
 男の表情は変わらない。まるで決められた仕事だけをする機械のようだ。が、男の発する言葉は、まぎれもなく誠意に裏打ちされたものだった。
 八年あまり「手」として勤めてきた経験から、篝はほんの短い会話から相手の人となりを推測することができた。この男は、偽りを言わぬ。それが結局は、いちばんいい結果を生むと信じているのだ。
「とりあえず、山は越したようですね」
 鴫は言った。篝の手を毛布の中へと戻す。
「ほんと?」
 噛みつくように、与儀が訊く。鴫は頷いた。
「さすがに、よく鍛えておいでだ。並みの者なら即死してるでしょうからね」
 鴫は篝に目礼して、部屋を出ていった。
 さすがに、か。篝は合点した。あの男は知っているのだ。自分が「手」であることを。
 あらためて、篝は室内を見渡した。クリーム色の壁。窓はない。様々な医療機器と監視カメラ。
 集中治療室だな。見覚えがないところをみると、おそらくここは御影研究所だ。そして、あの男は研究所の医師。「手」の身元を知っているということは、たぶん主任クラスだろう。
 御影研究所は御影本部直属の研究機関で、公には認められていない薬や武器の開発などを手がけている部署である。
 篝は大きく息をついた。
 とにかく、与儀の暴走は食い止めることができた。まともに体が動かせないほど傷だらけになってしまったが、これぐらいどうということはない。与儀も、ほかの者たちも無事だったのだから。
「鳥居どの?」
 ふと、横を見る。いない。いまのいままで、うるさいほどにしゃべっていた与儀がいない。
 どうしたのだろう。急に不安になる。部屋を出た様子はなかったのに……。
「……与儀」
 篝は口元をゆるめた。
 与儀は床の上で、ひざを抱いて眠っていた。赤子のように、無心に。
 寝息が聞こえる。規則正しい、穏やかな寝息が。
 きっと、ずっと眠っていなかったのだろう。ここに来てから。
『ごめんね』
 与儀は言った。純粋な心で。
『ごめんね。オレのせいで』
 おまえのせいじゃない。でも、それを考えられるようになったんだな。
 こみあげてくるものを、ぐっとこらえる。この男は、他者を思い遣ることができるようになった。むろんそれは、自分に対してだけかもしれないが。
 そのとき、戸を叩く音がした。
「はい」
 まだうまく出ない声で答える。扉が開いて、飛沫が入ってきた。
「鴫が、もう話をしてもいいと言うのでな」
「このたびは、ご迷惑をおかけしました」
 神妙に、言う。飛沫は軽く頭を振った。
「いや。おかげで、よからぬ企みをしている者をおびき出せた。さすがに、八代さまが目をかけているだけのことはある」
 飛沫は椅子に腰掛けた。
「よくやってくれた。与儀とのことも、いろいろ大変だっただろうに」
 誤解している。篝は口の端を歪めた。飛沫は、自分が「手」として計算した上で東館に入ったと思っているのだ。
「いいえ、飛沫どの。それは、見当違いです」
「見当違い?」
「はい。おれは……もう『手』の資格はありません」
 床で眠る与儀を見遣って、篝は語を繋いだ。
「おれは、鳥居どのの『もの』になってもいいと思いました」
「桐野……」
「そして、もうおれは、鳥居どののものです」
 断言した。自分で自分を確認するかのように。飛沫は無言だった。沈黙が流れる。
 与儀の寝息だけが、やけに大きく聞こえた。安らかな、ゆったりとした呼吸。ときおり口元がもごもごと動く。なにか夢でも見ているのだろうか。
「『手』を……」
 静かに、飛沫が口を開いた。
「辞めるつもりか」
「……許されぬことだと、承知しています」
 御門の下命なく都を出ることはできぬ。禁を破れば、すなわち死。
 それでもかまわない。与儀を愛することができたから。
 生まれてきてよかった。篝は心から、そう思った。