水鏡映天  by近衛 遼




ACT11

 そうだ。これは、任務などではない。
 与儀がだれかに利用され、いいように使われるのは、もう許せない。ものごころついたころから、この男はずっとそうやって、他人の勝手のために全身に血を浴びてきたのだ。
 人を殺すことでしか、与儀は自分の存在意義を見いだせなかった。篝が盲目的に「手」であることを受け入れてしまったのと同じように。
 許せない。これ以上与儀を汚すのは。
「熱いよ、篝……」
 奥深くまで入り込んでいた与儀が、がっしりと背中を支えて言った。
「あのときみたいに」
「あの……とき…?」
 喘ぎながら、篝は訊いた。
「ん。ほら、外で……」
 物見砦でのことか。痺れた頭で、なんとか思考する。
 そうかもしれない。なにもかもが灰塵と帰したあの砦で、自分はこの男に抱かれた。
 すすと、土埃と、血の匂い。
 封じ込めていた記憶とともに、篝は素のままの感情を思い出してしまった。どうしようもなく、この男に引かれている自分を。
 言葉ではとても説明できない。全身を鷲掴みにされたような、強烈な引力。打算も計算も駆け引きも、希望も期待も夢すらもない、一筋に向かう心。
 篝は与儀の首にすがりついた。
「……」
 要求を口にする。この熱を、もっと感じたかった。
 態勢が変わる。背中が疼く。体重がそこにかかる。前後に揺らすと、さらに刺激が増した。
「なんか、もう……ギリギリなんだけど」
 耳元で、与儀がかすれた声を出した。篝は頷いた。
 四肢の関節も腰も背中も、もちろん与儀と繋がる場所も。すべてが限界を振り切って、篝は意識を飛ばした。


 与儀がなにか言っている。自分にではない。少し離れたところで。
 寝台の横。与儀は、だれかに向かって話をしている。
 だれ? そこにいるのは。
 見たいけれど、見てはいけないような気がした。だから、そのまま目を閉じていた。
 しあわせそうな声だったから。
 与儀は、しあわせそうに、懐かしそうに、なにかを話し続けていた。


 翌日、ふたたび岳が最上階に上がってきたとき、与儀は結界をゆるめて岳を部屋の中に入れた。
「なーんか、久しぶりだよなあ……っと、あらら、ずいぶんなことで」
 寝台を見遣って、岳は口の端を持ち上げた。
 篝は全裸のまま、人事不省で寝台の上に突っ伏していた。もちろん、腰から下は毛布で隠していたが。
「やりすぎなんじゃねえか?」
「おまえには関係ないだろ」
 与儀はいかにも不本意そうな声で、言った。毛布が肩までかけられる。篝はそのまま、眠ったふりを続けた。
「で……決心はついたかい」
 床にあぐらをかいて、岳が言った。
「まあねー。どっちにしても、このままじゃまずいもんね」
 軽い口調で、与儀が答える。
「話ぐらいは聞いてやるよ」
 与儀は寝台にすわった。篝を庇うように。
「じつはな、あさって、八代目がここに来ることになった」
「ミカドが?」
「燭が八代目に泣きついたらしいな。もう自分の手にはおえん、と」
「なーんか、それって情けなくない? 仮にも御影のトップがさー」
「燭はそれだけ、おまえを恐れてるってことだ」
「ふーん」
 わかっているのか、いないのか、はっきりとしない相槌。
 実際のところ、どちらでもいいのだろう。与儀にとって、他人が自分をどう見ているかなどと。
 岳とのやりとりは、あらゆる場面を想定してひとつひとつ教えた。
 与儀はそれをほぼ一回聞いただけで覚え、さらにその応用も完璧だった。昨夜は、それらの台詞を反復するのに費やし、ふたりともほぼ徹夜の状態だ。
「面白いねー。篝って、わざおぎみたい」
 ひと通り、台詞を覚えたあとの与儀の感想である。
 「わざおぎ」というのは、役者のことだ。なんでも「御影」の宣旨を受けるために都に出たときに、一度だけ旅芸人の一座の芝居を見たことがあるらしい。
 わざおぎ、か。
 篝は苦笑した。たしかに、「手」は役者でなければ勤まらない。でも、自分は……。
「おれは、おざおぎじゃありませんよ」
 では、なんなのだろう。
 まもなく夜明けを迎えようというころ。篝はぼんやりと考えた。
「じゃあ、なんなの」
 まるで心を読んだかのように、与儀が訊いた。
「ねえ。篝は、なに?」
 まっすぐに、金の瞳が向けられた。
「おれは……」
 篝はしばし、考えた。そして、たったひとつの答えを告げた。
 あなたのものです、と。
 あのときの与儀の顔。たぶん一生、忘れないだろう。この命がいつまであるか、わからないけれど。
「ま、そういうわけでよ」
 岳が、脱走の手順を説明している。
 篝はふたたび、その話に神経を集中した。岳がなにを狙っているのか。与儀になにをさせるつもりなのか。
「警備が南に集中するんで、北門は手薄になるはずなんだ。だから……」
「夜中に北から逃げろって?」
「ああ。北門には、俺の息のかかったやつを置いておく。すんなり通しちゃ、いろいろ問題があるんで、多少の騒ぎは起きるだろうがな」
「邪魔するやつは、殺すよ」
 さらりと、与儀は言った。
「おいおい、そりゃないだろうが。俺はおまえを逃がしてやろうって言ってるんだぜ」
「だったら、おまえの仲間に言っとけば? 北門の左側をぶっ潰すから、さっさと逃げろってさ」
 左にいる者は、確実に死ぬ。岳は頷いた。
「刻限は?」
「わかんないよ、そんなの。アレが長引いたら、朝になるかもねー」
 アドリブがききすぎだ。
 寝台の上で、篝は肩を震わせた。それに気づいたのか、与儀がすっくと立ち上がった。
「話は終わりだよー。ほら、さっさと行った行った」
「あいかわらずだなあ、おまえは。用が済んだら、とっとと出ていけってか」
 岳が文句を言いつつも、すんなりと部屋を出ていったあと。
 与儀はさらに厳重に、結界を張った。
「ねえねえ」
 戸口で、くるりと振り向く。
「どうだった?」
 期待に満ちた顔。篝は寝台の上に起き上がった。
「上出来です」
「でしょでしょー。いやあ、もう、ほんっとに楽しかったなー」
 うきうきと、近づいてくる。
「篝」
「はい」
「いいんだよね」
「はい。でも……」
「なに?」
 ほんの少し、不安げに眉を寄せる。篝は手をのばした。
「『ご褒美』じゃないですからね」
「え?」
 ほしいと思う気持ちは、同じだから……。
 与儀の端正な顔が眼前にある。篝は思いを込めて、その唇に口付けた。