| 猛獣使いへの道 by(宰相 連改め)みなひ ACT10 風の吹きわたる中庭で、おれはその人に出会った。 しわ深い顔の奥より、漆黒の瞳が見つめていた。 穏やかな、とてもやさしい眼差しで。 御影研究所に来て、二日目の朝が来た。 最後の採血が済み、おれは予定されていたことの全てを終えた。 「桐野君、君は病人ではありません。部屋にこもっていないで、散歩でも行かれてはどうですか?」 朝食後、宮居さんが部屋に来て言った。 「ここは何にもないように見えて、結構おもしろいですよ。書庫にはたくさんの書物もありますし。はいこれ、施設の案内図です」 ぴらりと一枚の紙を渡し、宮居さんが微笑む。笑顔の圧力に負けて、おれは部屋を後にした。 昨夜の続きを、じっくり考えたかったんだけどな。 正直気分は乗らなかったが、後で言っても仕方がない。おれは研究所内を見て回ることにした。 御影研究所は和の国の都から北東の位置にあり、周囲を山に囲まれている。一見目立たない小さな建物ではあったが、内部は様々な施設を兼ね備えていた。 思ったより広いんだな。 あちこち見学しながら思った。医療部に研究部に飼育部に栽培部。主要な箇所を巡るだけで、かなりの時間を要してしまった。 どこまで続くのかな。 食堂から書庫を巡った後、おれは長い廊下に出くわした。これといった装飾もない、ただ白塗りの壁が続く。やや不安になり始めた時、明るい光が見えた。 「出口だ」 思わず声がでる。おれは足を速め、光の方へと向かって行った。 「・・・わあ」 出口を抜ければ、そこには回廊が続いていた。中庭を取り囲んでいる。昼をとうに過ぎ、西に傾いている太陽。吹き抜ける風が、身体を包んだ。 気持ちいい。 風は新しい空気を運んでくれた。大きく吸い込む。少しだけ、頭の中が晴れた気になった。 こういう所も、あったんだな。 改めて思った。今まで何度も研究所に来たけど、いつも検査室と自室の往復。検査が終わればすぐに帰還。ゆっくり施設を見回る時間もなければ、そうする心の余裕もなかった。 「あ・・・・」 庭の中央に、人影を見つけた。膝を折り、何かしている。顔はこちらから見えない。けれど、背中には見事な白髪が流れ落ちていた。 どうしよう。 最初は気づかれないよう、通り抜けようかと思った。だけど、なぜだか躊躇う。装束からするに、その人は研究者ではない。白衣を着ていなかった。 何をしているのだろうか。 疑問に思った時、白髪の人が立ち上がった。その人の前には、小さな碑らしきものが見える。 「こんにちは」 穏やかな声が聞こえた。おれは碑らしきものから、声の主へと視線と移す。 「いいお天気ですね。風が気持ちいいですよ。こちらに、いらっしゃいませんか?」 ニッコリと笑んで、その人は声を掛けてくれた。年輪の刻まれた顔に、白髪と真っ黒な目。とても、優しそうな目だった。 「はい」 おれは返事をし、歩き出した。中庭の中央へと進む。警戒心は抱かなかった。なぜだか、ひどく懐かしいよな気がしたから。 「何をされていたんですか?」 「相方と話をしていました」 おれの問いに、微笑んで老人は答えた。傍らの小さな碑に視線を落とす。 「ここに、私の『対』が眠っているんです」 照れたような表情で、その人は言った。 老人の名は、遠矢真(とおや しん)といった。 「遠い昔、私の『対』の者は殉職しました」 彼方を見やりながら、その人は告げた。 「任務中の、それも他国での殉職でしたから、遺体は手元に返りませんでした。あいつが、自らを跡形もなく葬ったんです」 苦笑しながら、言葉を継ぐ。 「でも暁は、私の相方ですが、いつも言っていました。この碑には自分の一部が眠っている。だから、俺の墓はこれなんだと」 御影研究所にある碑。碑自身に記されている記述からは、それは研究所で扱った者たちの一部を納めたものだという。では、遠矢さんの「相方」は・・・。 「暁は、この施設で研究されていました」 おれの疑問に答えるように、遠矢さんは告げた。 「あいつは先天的に強大な能力を秘めていて・・・・・事情があって、別の人格を植えつけられていました」 懐かしそうに碑に目をやる。注がれる視線。慈しむような。碑そのものではなく、その先の誰かを見つめているような。おれは疑問に思う。どうしてこの人は、こんなに大切なことをおれに話してくれるのだろうか。 「あの・・・」 「すみません、年寄りの昔話です。つまらなかったでしょう」 おれの表情を迷惑と見てとったのか、老人は話をやめようとした。おれは首を振る。正直、続きを聞きたかった。 「いいえ、そんなことないです。それで、『対』の方はどうされたんでしょうか」 素直に訊いた。図々しいと思ったが、二つの人格、おれと似たその人のことをもっと知りたかった。 「いいのですか?」 窺うように見つめられる。おれはこくりと頷いた。 「暁は・・・・苦しんでいました。もとの記憶を思いだした後も、それまで自らのしたことを悔やんで」 「なにか、あったんですか?」 「ええ、いろいろあったものですから。記憶を取り戻す前のあいつは、かなり乱暴な性格だったので・・・・」 困ったように老人が告げる。でも、表情は困りきったそれではなかった。 「最初は私も思い詰めたりしたんですが、あいつが自分の知ってるあいつだと知った後には、迷いはありませんでした。私にとって、それらは何でもないことになったんです。けど、自らの所業を知ったあいつは、どうも自分を許せなかったらしくて・・・・一度は勝手に離されてしまうところでした。その方が、私にとってはひどいことだったのに」 肩を竦めながら、白髪の人が言う。 「その、訊いていいですか?」 遠い目をする人に、どうしても尋ねたくなった。彼らの間にあったことは推し量れない。それでも。 「なんでしょうか」 「あなたはどうして、その人と一緒にいたのですか」 思いきって言った。おれのような「暴走」ではなかったにせよ、この人はなぜ、「対」のもとを離れなかったのだろうかと。 「そうですね・・・・」 おれの問いに、遠矢さんは目を閉じた。しばらく考え、また目を開く。笑みながら告げた。 「理屈ではないと思います」 「え・・・・・」 「私は暁といたかった。それだけだと思います。暁が私の知ってる暁でも、私の知らない、あの嵐のような暁でも、暁に変わりはなかったから。暁だから、いたかったのだと思います」 穏やかな老人の中に潜む、強くてまっすぐな思い。激しく燃えさかることはないが、青白い炎のように、消えずに燃え続ける。眩しく思えた。 「すごいですね。なんだか、羨ましいです」 言葉が滑り出ていた。目の前の人が小首を傾げる。おれは言葉を重ねた。 「遠矢さんの強さが、羨ましいです。おれなんか意気地なしで・・・・・」 自分は逃げてばかりいた。もう一つの自分を、どうしても認めたくなくて。『あれはおれではない』と、必死に思いこむばかりで。なのに、目の前の人は受け止めたのだ。「対」の人物、全てを。 「実はおれも二つの人格を持っています。もう一人のおれは暴走したら止められなくて、『対』の人にも迷惑かけどおしで・・・。ずっと受け入れられずにきました。その人格を抑えることだけを考えて。度々、それに命を助けてもらっておきながら」 あいつは命の危険を感じた時、いつもおれと代わった。逃げ出したくなるおれを、押しのけるようにして。 「おれは考えていませんでした。どうして、もう一つの人格が生まれたのだろうかと。あいつを否定するだけで、その原因を考えなかった」 あいつはいつも現れた。水木さんが離れてしまうんじゃないかと不安な時、何も言えないおれの代わりに、あの人を繋ぎ止めるように。 『そうか』 不意に気づいた。 『あいつは、おれが怖れた時に現れるんだ』 命を脅かされる「怖れ」。水木さんがいってしまう「怖れ」。 あいつは、「怖れているおれ」の為に、出てくるのだ。 金色の瞳の、「おれ」は。 「一つだけ、言ってもいいでしょうか」 声にハッと気づく。遠矢さんの声。思考に沈んでいた自分を、水面へと引き上げた。 「え、あ、はい」 「自分を、嫌わないでください」 染み入るような声音で、老人は言った。 「あなたも、そのもうひとりのあなたも、あなたであることに変わりはありません。嫌って否定してしまったら、その先には進まないと思います。それに・・・」 わずかに笑んで、語を繋ぐ。 「それに。そんなことは、どうでもいいのではないですか?その『対』の方にとっては」 水木さんが。たしかに、あの人は逃げようとしなかった。おれを責めることも。だけど・・・。 「あなたの側にいる人を、信じてください」 信じて。 おれは、水木さんを信じてなかったんだろうか。 「ほら。気づきませんか?」 小首を傾げて遠矢さんが言った。何だろうかと気を巡らす。感じる。よく知った気が、どんどんこちらに近づいてくる。 「見つけたーーーっ!」 おれが進んできた回廊から、その人は姿を現わした。蜂蜜色でところどころ色の違った髪。いつもなら美しく結われているそれは、ぐしゃぐしゃに乱れてしまっている。化粧っ気なしの顔。夜更かししたのか、目の下にはくっきりと隈。血走った薄茶色の目が、ぎろりとこちらを睨みつけた。 「こんな所に隠れてたのねっ!斎!」 ほぼ逆上とも言える大音量で、水木さんは叫んだ。 |