「愛のもしも??劇場
-榊剛の場合-
by近衛 遼


ACT16

 裏庭の物干しに、二組ぶんの蒲団カバーやシーツがはためいている。それに、バスタオルや浴衣も。
 なんだよ。これは。
 榊剛は眉間にしわを刻んで、窓を閉めた。
 北方の国境近くでの任務を終え、西町通りの家に戻ってきたのが半時ばかり前。いつになく散らかった部屋を訝しく思い、あちこち見て回ったのだが、やはりなにかおかしい。
 現在この家に住んでいるのは、剛の情人である元「御影」の少年だけだ。その少年はたいそうまめな性格で、ふだんから家の中はきちんと整理整頓している。それなのに。
 自分がいないあいだに、客でも招んでいたのだろうか。少年は桐野財団の総帥の義弟で、ときおりSPのような仕事もしている。交際範囲が広くても不思議はないが、いままで他人を家に泊めるようなことはなかったのだが。
 そこまで考えて、剛は言いようのない不快感に見舞われた。

 あいつが、だれかをこの家に泊めた?

 ……ここは俺んちだぞ。
 考え出すと、止まらなくなった。
 そうだ。ここは俺の家だ。俺が、あいつのために借りた家。俺とあいつだけの場所なのだ。
 想像がよからぬ方向へと膨らんでいく。そんなことがあるはずはないと思う一方、人のいいあいつなら、情にほだされてしまうかもしれないとも思う。なにしろ、自分との関係だって最初は……。
 いまさら言うのもなんだが、ずいぶんひどい始まり方だったよな。
 剛は台所の椅子にすわってため息をついた。
 補欠という異例の形で御影本部に配属された新入りがいると聞いて、ほかのやつらにヤられちまう前に「味見」しておくかと、軽い気持ちで部屋に呼んだ。それがここまで長い付き合いになるとは。
 しみじみとこれまでのあれこれに思いを馳せていると、玄関がカラカラと開く音がした。
 やけに早いな。
 まっすぐ奥に入ってくるかと思ったら、縁側から再び外に出ていく気配。どうやら、洗濯物を取り込むつもりらしい。ぱたぱたと、せわしなく行き来する音がする。
 まだ乾いてなかったはずだが。
 もう、だめだった。早く帰ってきたことも、急いで生乾きの洗濯物を片付けようとしていることも、一刻も早くなんらかの「証拠」を隠そうとしているように思えて……。

 弾けるように、剛は飛び出していた。
「えっ、ご……剛さん……」
 大判のシーツを抱えて、少年が目を丸くした。
「どうして……」
「来い!」
 がっしりと腕を掴み、引っ張る。よろけるようにして、少年は剛の胸に倒れ込んだ。シーツがばさばさと沓脱ぎ石の周りに落ちた。
「剛さんっ、ちょ……ちょっと待って……」
 待てるかよ。
 さらに手に力を込める。少年は痛みに顔をしかめた。かまわず体を引き上げ、座敷に押し倒した。先刻まで表に干してあった蒲団の上に、ふたつの体が雪崩れ込む。
 少年が怯えたように見上げた。なにか言おうとした口に、強引に口付ける。少年がかぶりを振った。
 抗うのか。どんなときも、どんなことでも受け入れてきたおまえが。
 喉元を押さえて、衣服を剥ぐ。以前ここに泊まってから、半月ばかりたつ。当然、そのときの跡はもう消えているはずだ。
 もし、自分の知らない標があったら……いや、なくても、わずかでも自分以外の匂いが残っていたら。
 剛は、少年の肌を隅々まで調べた。術で抵抗を封じ、声さえも出ないようにして。
 最後の場所を調べた終えたときには、少年は意識を失っていた。


 俺は、なにをした。
 嵐のような感情が通り過ぎたあと。剛は呆然と少年を見下ろしていた。俺は、なぜここまでしてしまったのか。最初のときのように、歯止めが効かなくなって……。
 急速にあたりが暗くなってきた。遠くで雷の音。
 しばらくして、雨雲が西町通りの上までやってきたらしい。青白い閃光がカッ、と座敷を照らしたかと思うと、バリバリと天井が揺れるほどの雷鳴が轟いた。あたりの音をすべて飲み込むような雨音が聞こえてきて。
「……ん……っ」
 ぴくり、と、少年が動いた。剛ははっとして、その相貌を覗き込んだ。うっすらと開いた瞳に、自分の影が映る。
「雨……」
 やっと聞こえるぐらいの声で、少年は言った。
「やっぱり……降ってきましたね」
「……ああ」
 ほかに言い様がなくて、剛は相槌を打った。
「あの、シーツは……」
「ん?」
 シーツ? そういえば、庭に打ち遣ったままだ。それを言うと、
「そう……ですか」
 小さなため息。
 なんだ。あのシーツがそんなに重要なのか。またぞろ不穏な想像が頭をもたげてきたとき。
「雨の気配があったから、早く帰ってきたんですが……仕方ないですね」
 苦笑しつつ、少年は言った。
 雨の気配だと? そんな些細な予兆を感じられるのか。こいつは。
 剛とて歴戦の「御影」である。風や雲の動きを読んで、今後の天気を予測するぐらいはできるが、今日は直前まで天候の崩れを察することはできなかった。
「剛さん……」
「なんだ」
「今回の任務は、ずいぶん大変だったんですね」
「え?」
「ご無事で……なによりです」
 いつもの笑顔で、少年は言った。つらいだろうに。苦しいだろうに。
 そろそろと、手が伸びてきた。剛がその手を取ると、
「鴨の薫製が、冷蔵庫に入ってます。お酒も、冰の国の吟醸酒が……すみません、ちょっと、おれ、今日は……」
 語尾が弱々しくなる。少年は再び、意識を手放した。
「おい………」
 ぐったりとしたその体を抱き上げ、何度か名を呼んだ。が、少年は昏々と眠り続けるだけだった。


 その後。剛は休暇の延長を申請して、少年の看護をした。
 あとになってわかったことだが、あの日、西町通りの家に泊まったのは少年の義弟であったらしい。桐野の家でいわゆる兄弟ゲンカのようなことがあって、「こんな家、出ていってやるーっ」と衝動的に家出をしてきたそうだ。少年は義弟と義兄のあいだに立って、いろいろと気配りをした。そして、やっと義弟が桐野の家に戻ることを承知して、送っていったという。
「弟の気が変わらないうちに送り届けなければいけないと思って、家の中を散らかしたまま出てしまって……。空模様もあやしくなるし、急いで帰ってきたんです。それで、剛さんがいらしてるのも気がつかなくて……。あのときは、本当に失礼しました」
 すまなそうに、少年は言う。
「いや……んなこたぁ、気にすんな」
 剛は胸の奥にいわく言いがたい感情を抱えたまま、そう言った。
 わかっていたはずなのに。この少年の誠意を。なにがあろうとも、真実を隠したりごまかしたりしないということを。
「明日の出立は、だいぶ早いんですね」
 夕餉の膳を用意しながら、少年が言った。
「ああ。ちっとばかり……遠出になりそうなんでな」
 先刻、「対」の水鏡、檜垣閃から届いた遠話によれば、莫の国からさらに西方まで足を伸ばさねばならないかもしれない。
『剛ちゃんが休みを前倒しでいーっぱい取っちゃったから、厄介なヤマ振られちゃったよん。埋め合わせ、ヨロシクね〜』
 宿舎に戻ったら、しこたま「特別手当」を搾り取られることだろう。まあ、それも仕方がない。
「ご武運を、お祈りしています」
 真摯な瞳が向けられる。
 剛はそっと少年の肩を抱き、触れるだけの口付けをした。

 古参御影、榊剛。その後、最難関の特別任務が次々と回ってくるようになったという。

  おしまい。