「愛のもしも??劇場
-榊剛の場合-
by近衛 遼


ACT15

 思いのほか早く片付いたな。
 榊剛は鼻唄まじりに都の大路を歩いていた。まだ日は高い。いまから西町通りの家に行ってもあいつはいないだろうが、一杯ひっかけて昼寝というのも悪くはないだろう。なんなら「吉膳」の重箱弁当でも持っていってやろうか。そうすりゃ晩飯の支度にあたふたすることもあるまい。
 剛の情人である黒髪の少年は、いつ行ってもそれなりに夕餉を用意してくれるが、毎回毎回、慌てさせるのも気の毒だ。
 つらつらとそんなことを考えて、大柄な古参御影は北町通りにある老舗の料亭へと足を向けた。


 西町通りの小さな貸家。その玄関の戸を開けたとたん、なんとも甘い匂いが奥から漂ってきた。
「なんだ、こりゃ」
 バターに蜂蜜。チョコレートやバニラの香りもする。どうやら、ケーキかなにかを焼いているらしい。
 今日はだれかの誕生日か。少年はよく、義弟や「めぐみの森」の子供たちの誕生日にはクッキーやケーキなどを作っている。
「買った方が見映えもいいし美味しいんでしょうけど、義弟たちがリクエストしてくれるので……」
 以前、台所中に焼き上がったクッキーを並べてそう言っていた。今日もその類だろう。
「よお」
 台所に声をかけると、予想通りそこにはパウンドケーキやクッキーが所狭しと置かれていた。
「剛さん!」
 オーブンを覗き込んでいた少年が顔を上げた。
「おかえりなさい。すみません、あの、これは……」
「ああ、いいっていいって。ガキどもに持ってくんだろ。今日はだれの誕生日だ?」
 ぴらぴらと手を振って言う。
「え、いいえ、誕生日じゃなくて、お楽しみ会があって……」
「お楽しみ会?」
「はい。三カ月に一度、『めぐみの森』でやってる行事で、子供たちが歌とか劇とかを披露するんです。で、そのあとにお菓子やジュースでパーティーがあって」
「学芸会みたいなもんか」
 学び舎でも、似たようなモンがあったよな。剛はしみじみと思い出した。情操教育だかなんだか知らねえが、歌だの踊りだのやらされてげんなりした記憶がある。
「ほんとは『めぐみの森』の厨房で作るはずだったんですけど、今朝オーブンを温めようとしたら故障してたらしくて、みんなで手分けして作って行くことになったんです」
 お楽しみ会は明日らしい。
「剛さんが今日いらっしゃると知ってたら、ノルマを半分ぐらいにしてもらったんですが……」
 クッキーの生地がまだいくらか残っている。あと二、三回は焼かなければならないようだ。
「俺のことなら気にすんな」
 剛は風呂敷包みを目の高さに掲げた。先刻、「吉膳」で詰めてもらった重箱弁当だ。
「晩飯はこれがあるし、まあ、茶の一杯の入れてもらえりゃ、あっちで待ってるからよ」
 菓子の甘い匂いに包まれた中では、酒を飲む気になれない。
「すみません。一刻ほどで終わらせますから」
 少年は恐縮したようにそう言って、茶の用意を始めた。菓子鉢にあられや胡麻せんべいを乗せる。
「こんなものしかありませんが」
「かまわねえよ。ああ、これ、ちっともらっていいか」
 クッキーを指差して、訊く。少年はぱっと瞳を見開いて、
「はいっ。あの、お口に合うかどうかわかりませんけど……」
 剛は甘党ではない。が、出されれば大福だろうがカステラだろうが食う。食べるものに文句を言えるような暮らしは、したくてもできなかったから。
「じゃあな。ま、頑張れや」
 茶と菓子の乗った盆を手に、台所を出る。後ろでは再び、少年がクッキー生地を型抜きして天パンに並べていた。


 旨いじゃねえか。
 アーモンドクッキーを咀嚼しながら、剛は思った。予想していたより甘くない。砂糖入りの卵焼きが好きなあいつのことだから、もっと甘ったるいと思っていたのだが。
 チョコクッキーにも手を伸ばす。これもまた、それほど甘くない。ほろ苦さが口に広がる。「めぐみの森」に持っていくために作ったのだ。まさか自分の好みに合わしたわけではないだろうが、じつに旨い。
 端から見たら、なんとも奇妙な光景だろう。三十間近の強面の大男が、ぽりぽりとクッキーをかじりながら茶をすすっている。しかも、まんざらではない顔をして。
 まあ、こんなのもいいか。ここにはあいつと俺しかいない。なにを取り繕うこともないんだから。
 そうして、何杯かの茶とともに鉢の中の菓子がほぼなくなったころ。
「お待たせしました、剛さん」
 少年が、酒とつまみを手に座敷に入ってきた。
「おかげさまで、なんとか終わりました。あの、おれ、やっぱりちょっと買い物にいってきますね」
「晩メシなら、弁当買ってきたぜ」
「でも、お酒があと少ししか残ってませんし……」
 いらねぇよ。
 頭の中で答える。今日は酒はパスだ。
 剛は少年の腕を掴んだ。がっしりと抱きしめる。髪にも衣服にも、菓子の甘い香りが染み込んでいる。
 こういうものでも、酔えるんだな。
 新たな発見に苦笑しながら、剛は少年の体を畳に沈めた。


 翌日。
 「めぐみの森」のお楽しみ会に黒髪の少年の姿はなかった。代わりに、やたらといかつい顔の大男が「鳩屋」のサブレとカステラ焼きを大量に持ってきたという。
 ちなみに、少年が作っていたクッキーやケーキの行方は……。
 それは榊剛だけが知っている。


  おしまい。