「愛のもしも??劇場
-榊剛の場合-
by近衛 遼


その12

 予想外に長引いた任務のあと。例によって例のごとく、榊剛は西町通りの家に戻ってきた。
「ご無事で……なによりです」
 剛の情人である元「御影」の少年は、黒目がちの目を潤ませて出迎えてくれた。どうやら、だいぶ心配をかけたらしい。
 御影の仕事は、常に命の危険を伴う。ほんの短いあいだとはいえ、自身も「御影」を経験していた少年にとって、任務に出た者が音信不通になることがなにを意味するか、十分すぎるほど知っていた。
 剛は今回、台の国との国境ちかくで孤立してしまった。「対」の水鏡、檜垣閃の機転でかろうじて脱出に成功したが、一歩間違えば危なかったのだ。
 とりあえず、腕の一本もなくさずに帰ってこれてよかったぜ。
 その夜、少年を抱きながら、剛はしみじみと思ったのだった。


 翌朝。
 障子ごしに差し込む朝日の眩しさで、剛は目を覚ました。いけねえ。寝過したか。
 休日なのだから遅くまで寝ていてもいいのだが、昨夜はずいぶんあっち方面でハメを外してしまったから、朝メシぐらいは用意してやらなくてはいけない。軍務省ちかくの食堂は早朝から開いていて、頼めば持ち帰り用に折に入れてくれるのだ。このところ、都に戻って来た翌朝は、たいてい剛がその食堂に朝飯を買いに行っていた。

 大きくのびをして、起き上がる。ふと横を見遣ると。
「うん……?」
 いない。
 ゆうべ、共寝したはずの少年が。
 久しぶりの逢瀬で、だいぶ長い時間拘束してしまった。ぐったりと夜具に倒れ込んだのは、もう夜も更けたころだった。きっと、いつも通りの時間には起きられないだろう。剛はそう思っていたのだが。
 厠にでも行ったのだろうか。それとも、台所か。剛はあわてて身繕いをすると、座敷を出た。
 厠。台所。風呂場。居間。
 あちこち探してみたが、少年はいなかった。
 どういうことだ。いったい、なにがあった。
 自分から出ていったのか。否。ふだんの少年の態度からして、それはありえない。とすれば、強制的に拉致されたか。
 少年は桐野財団の総帥の義弟である。ときにはSPのような仕事もしているから、財団がらみのトラブルに巻き込まれる可能性は否定できない。
 それにしても、この俺が側にいながら、なぜ気づかなかったのか。いくら熟睡していたとはいえ、自分は御影なのに。
 悔やんでも悔やみきれない。剛はこぶしを握り締めた。
 よし。とりあえず軍務省と桐野財団に連絡をとらねば。剛は壊れんばかりの勢いで、玄関の引き戸を開けた。
「あ……」
 鬼のごとき形相で表に出た剛の前に、びっくりしたような顔をした少年がいた。
「お……おまえ……」
「おはようございます、剛さん。遅くなってすみません」
 申し訳なさそうに、小さく笑う。
「え、遅くなってって……」
「『豆の屋』の絹こし豆腐、手に入りましたから、さっそく朝食の用意をしますね」
 少年の手には、つややかな乳白色の豆腐の入った器。
「開店前から待って、やっと買えました。やっぱりこれは、冷や奴がいいですか?」
「たかが豆腐一丁買うのに、一時間以上も並んだのか?」
「はい。剛さん、前にいらしたときに『こだわりウォーカー』の話をなさってたでしょ。それで……」
 たしかに、「こだわりウォーカー」の「食の匠」シリーズに「豆の屋」の絹こし豆腐の記事が載っていて、つれづれにそんな話をした記憶はあるが。
「剛さんのおかげで、おれもめずらしいものがいろいろ食べられて、うれしいです」
 歩くのも大儀なほど疲れているだろうに。
 剛は大きく息をついた。
「……ありがとよ。んじゃ、一緒に食うか」
「はいっ。ミョウガも買ってきましたから」
 にっこりと笑って、少年は答えた。

 その休暇中、剛は「豆の屋」の豆腐を一日分買い占めて、「めぐみの森」とそれに隣接する子供病院に寄付した。その後、これは毎月の恒例行事となる。
 篤志家・榊剛誕生の瞬間であった。

おしまい。