「愛のもしも??劇場
-榊剛の場合2-
by近衛 遼


その8 如月水木の質問

「剛ってさー」
 ある夜。事が終わったあとで、如月水木は唐突に言った。
「おにーさんの本名、知ってる?」
 剛は飲みかけの水を吹き出しそうになり、あわてて口を押さえた。
「おっ……おまえなあ」
 なんとか水を嚥下して、
「こんなときに、なんでそんなこと……」
「え、だって、思い出しちゃったんだもんねー」
 けろりと、語を繋ぐ。
「この前、遊びに行ったときにさあ」
「この前? ……いつの話だ、それは」
「おととい。任務帰りに、晩メシ食べに寄ったのよ」
 まったく、いい加減にしてくれ。なんだって、俺の知らないところでこいつらがつるんでるんだ?
 水木は御影宿舎における剛の情人で、一方の咲夜は馴染みの色子だった。いまは東町通りの貸家に住んでいる。
「でさあ。そんとき、ちょっと気になって訊いてみたのよ。おにーさん、ほんとの名前はなんていうの、って」
 咲夜というのは、色子宿にいたときの源氏名である。当然ながら生まれたときにつけてもらった名前があるはずだが、咲夜自身がそれを明らかにしなかったので、剛はあえてそれ以上は詮索しなかった。
「……で、あいつはなんて?」
 剛とて、興味がないわけではない。いまはもう、「色子」と「客」ではないのだ。できれば本当の名前を呼んでみたいと思っていた。
「あれえ、剛も知らなかったの? なーんだ、余計なこと訊かなきゃよかったなー」
 めずらしくバツの悪そうな顔をしている。
「おい、それで、なんだって?」
 幾分、急いて訊くと、
「なーんにも」
 あっさりと、水木は言った。
「え?」
「自分は、『咲夜』だって」
「……」
「ま、いいんじゃない?」
 水木は口の端を持ち上げた。
「おにーさんは一生、『咲夜』でいる気なのよ。それが自分の生きる道、ってカンジだったよん」
 くすくすと笑って、水木は上体を起こした。
「すっごく、潔いヒトだよねー。オレ、惚れちゃいそ」
「おい、おまえ……」
「なーんちゃってね〜」
 がばりと、剛の上に重なる。
「もしかして、本気にした?」
 口付けが降りてきた。丹念に、それを味わう。体がふたたび目覚めてくるのがわかった。
「剛……」
 誘う声に、それまでの会話はいとも簡単に封じられた。


 咲夜はその後も、自らの名を明かさなかったらしい。が、それは剛にとっても水木にとっても、そして咲夜本人にとっても、たいしたことではなかったのかもしれない。


  おしまい。