選択   by(宰相 連改め)みなひ




ACT9

 何を妬んでいるのだ。
 桐野は人一倍がんばった。何からも逃げようとしなかった。だから認められたのだ。
 その桐野を自分と同じ所に堕とそうなどと、なんと醜いことか。


 足が重い。斎の部屋から自室までの距離が、千里の道のようにも思えた。自嘲に口が歪んでゆく。愚かな。自業自得なのに傷ついているのか。
「おい」
 聞き慣れぬ声に振り向いた。見知らぬ顔。否、これは見たことがある。確か食堂で見かけた男。桐野が行方不明の情報を聞かせてもらった。
「お前、なぜ来なかったんだよ」
 男は立腹していた。俺は意味がわからない。どうしてこの男は怒っている?来るって、どこに?
「言っただろ。夜、西館の奥から三番目の部屋に来いって」
 そうだったのか。確かにあの時、こいつは俺に何か言っていた。自室に呼び出していたのか。桐野の事が気になって、すっかり聞こえていなかった。
「・・・・申し訳ありません」
 目を伏せ、取り敢えず謝った。男はまだ機嫌を直していない。どうすればいいのか・・・・。
「来いよ」
「は?」
「詫びる気があんだろ?じゃあ、今からでもいい。行こうぜ」
 ぐいと腕が引かれた。男がどこかに行こうとしている。どこへ?
「なんだよ。詫びにやらせんじゃないのか?」
 やっと男の意図とする所がわかった。俺は男に求められていたのだ。身体を供することを。
「あ・・・・はい」
「もったいぶるなよな。ほら、こっちだ」
 腕の手はそのまま、男は踵を返した。西館へ向かっている。その時。
「なにしてんのかなー」
 急に声が降ってきた。北館の天井の一部がゆらりと歪んで、サッと黒い影が現れる。
「こいつ、今からおれの『特訓』なんだけど。何か用?」
 するりと男と俺の間に割って入ったのは、手練れの「水鏡」、桧垣閃さんだった。男の顔がサッと変わる。
「な、なんでもないです」
「そう?よかったー。実は時間が押してるんだよね。さ、海瑠くん、行こっか」
 するりとおれの肩を抱き、桧垣さんは告げた。
「・・・あ」
「行くよー」
 戸惑う俺を言葉で押す。仕方なく俺は桧垣さんに従った。ちらりと振り向く。男が見ている。憎悪の表情。
『気にしなくていいよ』
 遠話が聞こえた。桧垣さんだ。
『あんなの相手にしちゃダメ。やられ損だよ。ほら前向いて』
 促されて俺は前を向いた。桧垣さんを見る。横目で俺を見ている。
『銀生さんが来てるから、今日はそっちで泊まっちゃいな』
 言われた意味を理解して、俺はこくりと頷いた。 


 目を閉じそれだけを感じる。
 他には何もいらない。
「どうしたの?」
 いきなり腰を持たれて、動きを封じられた。不満にうっすらと目を開ける。目の前には、俺の「取引」相手の男。
「今日はえらく積極的じゃない。いつもはイヤそーなのにねぇ」
 下から覗き込むように告げる。俺は目を逸らした。うるさい。そんなのどうでもいい。
「もしかして、もう中毒ってやつかな?しないと落ちつかないって感じ?」
 追い打ちする言葉。それを肯定するように、繋がった下肢の奥底が疼いていた。僅かに動くだけでも伝わる、欲望の波。
「ほら、勝手に動いちゃダメじゃない。ちゃんと答えないと、離してあげない」
 無視して強引に動きだそうとしたら、更に大きな力で制された。肉に指が食い込む。
「答えて。どうなの?」
「・・・そうです」
 痛みに顔を顰め、返事を絞り出した。言葉一つで済むならいい。このくだらない会話を、一刻も早く終わらせたい。
「ホントー?そりゃ、嬉しいねぇ」
 俺の言葉を受けて、社銀生は大げさに驚いて見せた。笑んだままの唇が後を継ぐ。
「けれど、嘘はダメだよん」
 微かに揺らされ、背筋を何かが駆けぬけた。広がる波紋。焦れて、おかしくなりそうになる。
「何が・・・」
「バレバレだよ。中毒患者にゃ見えないね。むしろ頭はクリアーって感じ。で、それを誤魔化したくて仕方がない。なんか、やな事あったの?」
 くすりと喉の奥で笑われ、カッと血が逆流した。奥歯を噛む。
「わかった。それから逃げたいんでしょ」
 ぎりり。図星を差されて奥歯が鳴った。必死で自分を抑える。反論はできない。そうだ。俺は自分から逃げたい。
 この愚かなことしか考えられない、自分から。
「悪いですか?」
 顔を上げ、男を睨みながら言った。
「あんたには関係ないです。もうしゃべりたくない」
 腹底にある言葉を吐き出す。居直って告げた。殴り倒されるかもしれない。術で拘束されるかも。だけど言わずにいられない。苦痛でも快楽でも何でも、早くこの頭を潰してくれ。
「うーん、いいねぇ」
 社銀生の口元が、殊更楽しそうに弧を描いた。切れ長の目が細まる。獲物を前にした、肉食獣の表情。
「俺としちゃ構わないのよ。むしろ嬉しいね。いつも物わかりよくすましてるお前の、むき出しの敵意が。だけど・・・・」
「!」
 いきなり深く沈められた。背が仰けぞる。何かを掴もうと手が動く。引きずり込まれる淵から逃れようともがいて。
「言ったことの『責任』は、とらなきゃね」
 言葉と同時に揺すられた。息つく暇もない。掻き乱すものを受け止めるだけで、他に何もできない。
「ああ!あ!あっ・・・・あ!」
 声が散る。ただ目の前の男にしがみついて。叫ぶだけのものになって。
 まき散らす声が消えた時、俺の「責任」は終わった。

 沈んでいく。
 最後の息を吐きだして。
 形を成さない、漆黒の闇に取り込まれてゆく。
 その水底の泥に埋まって、俺は朽ちてしまいたい。
 何も感じることなく・・・。

「いい子になったねぇ」
 霞む意識の中、社銀生の声が聞こえる。
「せっかくここまで仕込んだのにさ、邪魔が入るってヤだよね。これからなのに」
 さらり。俺の頭を撫でながらしゃべっている。本当は頭など撫でられたくない。だけど、身体が動かない。
「でもね。俺の面倒見てる奴が、ブチ切れて厄介なことしちゃったのよ。それで学び舎追放されそうになってんの。仕方ないからちょっと、周囲を黙らせてくるね」 
 ポンポン。頭を軽く叩きながら社銀生は言った。俺はぼんやりと思う。学び舎・・・・か。
「一週間くらいでまた来るから。それまで、おとなしーく待っててねー」
 残さなくていい言葉を残して、社銀生は去って行った。俺は身動き一つできずに、気配が遠ざかるのを感じる。不意に消えた。
 ・・・行った。
 安堵と別の処理しきれない感情。二つのものを抱えながら、俺は諦めるように目を閉じた。