呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT6

 こうなるとは思っていなかった。
 事実は事実として、それなりに受け入れていけると思っていた。
 誰かに壊されなくても、俺が俺であることに変わりはない。
 そう言い聞かせていたのに、身体がいうことをきかない。
 俺はこんなに・・・・だったのか?
 

「あれ以上の薬ですか?難しいですねぇ・・・・」
 ズレた眼鏡を戻しながら、その医師であり科学者である男は言った。年は三十半ばくらい。童顔なのでもっと若く見える。
 この人は柊宮居。御影研究所の職員だ。
「あなたの仕事のことを考えると、そうきつい薬は出せないのですが・・・・・やはり眠れませんか?」
 窺うように聞かれて、俺は申し訳なくなった。それでも頷く。否定するには追い詰められ過ぎていた。
「困りましたねぇ。睡眠導入効果の強いものを使えば、副作用も無視できません。下手をすれば任務に差し障る可能性も出てきます」
「・・・・・はい」
「しかし、睡眠障害そのものがましにならない限りは、そちらのほうで任務に支障が出てくるでしょうしね・・・・」
「・・・・・・」
 落ちる沈黙。息が詰まるような気がする。
「わかりました。もう一段階強い薬を処方します」
 しばらくして、小さくため息を落としながら医師が告げた。
「くれぐれも、任務中や任務前には飲まないでくださいね」
 サラサラと処方せんを書きながら言う。俺は頷いた。
「それと、副作用の症状が出たら教えてください」
「どんな症状ですか?」
「そうですねぇ・・・いろいろあるのですが、眠気はもちろんめまいやふらつき、倦怠感に頭痛なんかも起こる場合があります。詳しくはこちらを見てください」
 一枚の紙が差し出される。受けとり俺は目を通した。いろいろ・・・あるな。
「わかりました」
「それでは・・・・はい。本当は、自然に眠るのが一番なんですけどね」
 苦笑と共に薬が手渡される。小さな白い錠剤が数個。俺も苦笑しながら受け取った。この人の言うこともわかる。けれど今は、眠ることが先決だ。
「ありがとうございました」
「そうそう、まれに悪夢とか見る人もいるみたいなんで、気をつけてくださいね」
 診察室を出ようとする俺に、柊という医師はつけ足した。俺は苦笑を濃くする。何に気をつけたらいいのだろう。眠れないことと悪夢を見てしまうこと。どちらがマシなのか。
「これで・・・・眠れればいいんだが」
 呟きながら廊下を歩いた。今日はオフ。まだまだ時間はある。さっそくこれを試して、眠ってしまおう。
 俺は小走りに自室を目指した。


 社銀生との関係が終わり、半月程が流れた。
 最初俺は、物事をそう深くは受け止めていなかった。あの人と切れたことはそれなりにショックもあった。だけど日にちと共に、それらは薄れてゆくだろうと考えていた。だけど。
 現実はそんなに甘くなかった。
『眠れない』
 あの日から俺は、眠れなくなっていた。
『眠りたい』
 眠りに入ることも困難。眠ったら眠ったですぐに目覚めてしまう。
『何も考えずに、泥のように眠ってしまいたい』
 身体を疲れさせても、精神統一や自己調整法も効かない。十分に満たない睡眠時間は、徐々にまともな思考を奪っていく。
『限界だ』
 任務に支障が出るのも、時間の問題だった。
「まずは一錠、だな」
 自室に帰り着きコップに水を汲む。透明な液体を手に、もらった薬を取り出した。その一つを掌に落とす。
 情けないものだな。
 薬を見つめて自嘲する。自分はもっと強いものだと思っていた。薬の力を借りることになるなど、思ってもみなかった。
 依存・・・か?
 自問する。最初は「取引」だった。大切なものを守る為に自分を投げ出しただけの。なのに、俺は・・・・。 
 ごくり。
 水と共にそれを飲み込んだ。水を飲み干す。胃の腑へ薬を押し流して。
 眠ろう。 
 寝台に横たわる。そっと目を閉じた。眠りが訪れるように願う。眠りこそが安息だと信じて。
 いつしか俺は、訪れた眠りを貪っていた。


 母が背中を向けている。
『なんでもないわ』
 母さん。
『こんなの、なんでもないわよ』
 どうしたの?泣いているの?
『私には、海瑠がいる』
「おお・・・まるで海姫様を抱いているようですな」
 直にその男の声が聞こえた気がして、寝台から跳ね起きた。どくどく。心臓が激しく打っている。全身に冷汗。まだ身体が震えている。
 あいつだ。
 声の主が頭に浮かんだ。あいつだ。洲の国から来たという、あの男だ。
「・・・う!」
 急に吐き気が襲った。洗面台に駆け込む。けれど何も・・・でない。
『いやだ』
 耳を塞いだ。父の側近だったという男の声が、また聞こえるような気がして。
『いやだ・・・・誰か!』
 固く目を閉じ、奥歯を噛み締めた。必死で自分を宥める。もう終わった。あれは過ぎたことだ。あいつは、死んだ。
『どうしてだ』
 自分自身に問う。
『どうして今頃、あいつが・・・』
 わからない。ずっと忘れていたのに。
『どうして』
「!」
 足音が聞こえた。気配が近づいてくる。この気は・・・流!
 俺は慌てて寝台に戻った。横たわり目を閉じる。必死で気持ちを落ち着かせて。

 なんでもない。
 なんでもないんだ。
 だから・・・。

「海瑠っ!いるかー?」
 ドンドン扉が叩かれる。いきなり戸が蹴破られた。流の気配。部屋に入り込んでくる。
『大丈夫』
 念じる俺に、流のにおいが近づいてくる。俺を覗きこんで。
 はあ。
 大きく息が吐き出された。流の気配が遠のく。ガリガリと頭を掻く音がして。
「寝てたか。悪りぃ」
 言い捨て義弟は部屋を出た。バタリと扉の閉まる音。俺はそっと目を開く。
『だめだ』
 自分自身に告げる。
『このままでは俺は・・・・・潰れる』
 潰れてしまうわけにはいかない。俺は流の「水鏡」だ。
『それだけは、避けなければならない』
 むくりと身体を起こした。考える。気絶でもなんでもいい。この、ろくでもない頭が動かなくなる方法を。
『手段を選ぶ余裕は、ない』
 唇を結んで立ち上がった。身なりを整える。髪を括ろうと鏡の前に立った。鏡に映る俺の顔。母に生き写しの、整った顔。
『髪は、このままでいい』
 思って、背筋を伸ばした。扉を睨み付ける。
『なんとかするんだ』
 大きく息を吸い込み、俺は自室の扉を開けた。