呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT29

 流が、任務から帰ってない?
 あいつだって「御影」のはしくれだ。そうそう、下手を打つはずがない。なのに。
 どうして千早は慌てている?


「海瑠先輩!流先輩が危ないんです!」
珍しく取り乱した顔で、後輩は言った。
「千早?」
「きっと、符の力が切れたんです。いや、最初から効果なんてなかったかもしれない!先輩、無理矢理我慢して・・・すみません!おれ、もっと早く先輩に相談してたら・・・」 
「ちょっとストップ!」
 狼狽する後輩の声を遮り、桧垣さんが叫んだ。千早がハッと我に返る。
「どういうこと?任務から予定通りに帰ってないって、ここじゃよくあることでしょ?危ないって何よ。順追って話して」
 表情はいつもと変わらない。けれど、桧垣さんの声は冷静だった。
「すいません。おれ、慌ててしまって・・・。先輩、桧垣さん、聞いてください。実は流先輩、足に呪印らしきものを抱えてたんです」
「なんだって?」
 思わず聞き返してしまった。呪印。そんなものを、流は・・・。
「その印は一月ほど前つけられたって、先輩言ってました。任務で「草」を一人仕留めたとき、土産をくらったって。最初は全然目立たなかったんですが、それはどんどん広がってきて・・・・痛みもあったらしくて、薬もそんなに効かなかったみたいです。おれ、誰かに相談をって言ったんですけど、先輩大丈夫だからって・・・・・」
「上総くん・・・」
 桐野が顔を曇らせる。その表情が更に俺の不安を煽った。
「それで、あいつは?」
「三日前、任務に出たんです。痛みがひどくて、まともに歩けない状態でした。おれ、なんとかしたくて痛み封じの符を渡して・・・・先輩それがよく効いたって、そのまま任務に出たんです。順調にいけば、昨日ここに帰ってくる予定でした。だけど、先輩帰ってなくて。任務受付にきいたら、連絡がずっとないって・・・・」
「でも、痛みは封じてるんだろ?」
 俺は千早に確認した。痛みがないのなら、流の戦闘力に差し障りはない。ならば。
「はい、先輩はそう言ってました。でもあの呪印、おれが見たこともない模様だったし、本当におれの符で抑えられているのかわからないです。それに、痛みの他にどんな呪力を持つのかも・・・。もしこの上、任務中に符の効力が切れたら・・・・・」
「あー!あれか!」
 ぽん。思い出したように手を叩き、桧垣さんが叫んだ。
「どーっかで見たような気がしたんだよなー!そっか!あれ、『置き土産』か!」
 俺は桧垣さんを見つめた。「置き土産」。それは・・・。
「死縛印だよ」
「死縛印?」 
 俺は目を瞠った。死縛印。記憶を必死でたぐる。
「そう。色々種類があんだけどさー、あの模様、たぶんその一つだよ。おまえも習っただろ?自らの体内に呪いを仕込み、自分の死した血肉によって、相手に呪いをかける。呪いを解除するには、結構面倒な印と気の操作がいるってやつ」
 その印については聞いたことがあった。解除法も身をもって教えてもらった。あの男に。
「そっかー、死縛印となると、ちょっと厄介かも」
 こきこきと首を鳴らしながら、桧垣さんが言った。
「あれは放置し過ぎたら、全身動かなくなっちゃって死ぬから。痛みも天井なしに強くなるしねー。流のやつ、今頃のたうってたりして」
「そんな・・海瑠先輩っ」
 すがりつくような目で千早が見つめる。俺は困惑した。流が危ないのはわかる。でも、俺は・・・。
「上総くんは、今どこに?」
 桐野が尋ねた。
「天角だと言っていました」
「えーっ!天角?」
 千早の答えに桧垣さんが叫んだ。
「天角つったら宗との最前線じゃん〜。あんな結界攻防戦みたいなとこに、あの流が行ったの?」
「はい。怪しい動きがあるとかで、先輩はその調査に行きました」
「うーん、調査、ねぇ〜。あいつ、防御結界一枚しか張れないのに、どーすんのよ。そりゃヤバイ。洒落んなんないよ」
 がりがりがり。呆れかえったように頭を掻きながら、桧垣さんが呟く。
「お願いです。どうか上総先輩を・・・」
 必死に迫ってくる千早の目を、俺はまっすぐ見返すことができなかった。本当はすぐにでも駆けつけたい。だけど、あいつは俺を拒絶した。関わるなと言った。
「・・・・だめなんだ」
 言葉を絞り出す。
「海瑠先輩!」 
「俺が行っても、あいつは・・・」
「海瑠先輩!」
 千早が叫んだ。俺は千早から顔を反らせた。固く目を閉じ、自分に言い聞かせる。行きたくても無理だ。もう駄目なのだと。
『渚海瑠』
 その時遠話が聞こえた。
『急ぎ、御影室へ来るように。もう半時ほどで、先方がこちらに着く』
 飛沫様が呼んでいる。先方が・・・・そうか。
「・・・御影長に呼ばれた」
 立ち上がりながら告げた。
「もうすぐ面接が・・・・相手が、着くらしい」
「だめです!」
 トレイを持ち上げようとした腕を、がしりと誰かが掴んだ。桐野だ。必死な顔の桐野が、俺に迫っている。
「海瑠さん!行っては駄目ですっ!」
「・・・・・桐野」
「お願いです、考え直してください!このままでは上総くんが・・・・上総くん、きっと海瑠さんを待っています!」
 桐野の放った言葉に、心で何かが荒れ狂った。信じたい。あいつが俺を待っていると。でも恐ろしい。必要とされていなかったら?疎まれるだけだったら?
「離してくれ」
 こわばった口をこじ開け、言葉を押し出した。身体が震える。ここから逃げたい。このままでは、己がバラバラになってしまう。
「俺は、行かなくては」 
 桐野の手から逃れる。食べなかった蕎麦を返却しようと思った。御影長室へ行かねばならない。俺は、面接を。その時。
「待ちなさい!」
 いきなり受けた衝撃に、一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「黙って聞いてりゃ、ゴタク抜かしてんじゃないわよ!」
 右頬に焼け付く痛み。隣の食卓まで吹っ飛んだ俺に、容赦なく言葉が浴びせられた。鞭のような声。燃える薄茶の瞳。水木さん?殴ったのか?
「好きなんでしょ!」
 投げかけられた言葉に、反応できない。
「・・・・あ」
「あんた、あのバカ好きなんでしょ!行きなさい!」
 ぴしりと指された指先に、俺は惹きつけられてしまった。美しく彩られた爪の向こう。そこには、あいつがいる。

 好き。
 俺は、あいつのもとへ行く。
 流が好きだから。
 
「いってらっしゃーい」
 身体が動いていた。
「先輩!お願いします!」
 背中で桧垣さんの声が、千早の声が聞こえる。俺はそれに振り向きもせず、御影宿舎を飛び出していた。 
『考えるな』
 心に念じる。
『あいつの所へ行く。それだけでいい』
 大切なことは一つ。あいつを失うわけにはいかない。他のことなど、関係ない。
『流!』
 走りながら印を組む。心であいつを呼びながら、俺は口呪を唱え始めた。