呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT25

 やめよう。
 どれだけ手を尽くしても、ほどけた糸はもどらない。
 あいつから伸ばされていた糸は、もう切れてしまったのだ。
 俺が、切ってしまった。


「それでは特務三課希望として、事を進めてよいのじゃな?」
 書庫で流に会った三日後、俺は異動を申し出た。御影長が確認を取る。 
「はい。宜しくお願いします」
「おぬしなら先方も申し分ないじゃろう。よく、決心したの」
 しみじみと言われて、俺は答えに窮した。決心。そんな、いいものではない。 
「・・・・いいえ」 
 苦笑と共に返した。
「違うんです」
 そうだ。これは、心を決めたなどというものではない。ただ諦めただけなのだ。流の傍に自分の場所はないと知って。一人でやっていくあいつを、見つめ続けることに耐えられなくて。
「俺は・・・・逃げてるだけです」
「逃げるなら、もっと早くに逃げておるな。あやつの『対』など酔狂ではできん。『御影』とはどやつも厄介な輩じゃが、あやつは中でも群を抜いておる」
 書類に目を通しながら、御影長が告げた。俺は思い出す。この人が、かつては「水鏡」であったことを。
「今は、どうにもならぬ」
 ぱさりと書類を机に置き、隻眼が見据えた。
「おぬしは近くであやつを見過ぎた。距離を置いて見直すことも、時には必要じゃろう」
「・・・・・・・はい」
 御影長の言葉。項垂れながら聞いた。まだ迷いはある。これで本当にいいのかと。だけど、ここでだらだらと皆に甘えて過ごしていては、もっとダメになってゆく気がする。
「とにかくは知らせを待つがよい。必要書類を届けておく。おって、返事がくるであろう」
「はい」
「飛沫ーっ、入るわよー!」
 言葉と同時に扉が開いて、水木さんが御影長室に入ってきた。後ろには桐野もいる。
「あら、ごめーん。取り込み中だったかしら」
「水木さんっ!だから、ノックしてくださいと・・・」
「えー?だってメンドクサイもーん」
 焦る桐野と開き直る水木さんを横目に、俺は御影長にめくばせした。御影長が頷く。
「いいえ。もう、話は終わるところでした」
「あーら、そう?」
「はい。では御影長、俺は失礼します」
「うむ」
「あの、海瑠さん、どうも失礼しましたっ」
「斎〜、なんでアンタが謝んのよ」
「それでは」
 バタン。俺は御影長室の扉を閉めた。中では水木さんの意気揚々とした声と桐野の焦った声が続いている。どちらも微笑ましく感じながら、俺は踵を返した。ため息一つ落として、一歩を踏み出す。
 少し気が重いが・・・・仕方あるまい。
 特務三課希望を決めた以上、俺には会わねばならない人が一人いた。その人と会う為に、俺は待ち合わせの場所へと進んだ。


 午後の書庫は、緩やかな光に包まれていた。立ち並ぶ書物を前に、一人、考える。
 あれからここへ何度も足を運んだが、流のいた気配は感じなかった。きっとあの時のように出会ってしまうを避けて、別の場所で休んでいるのかもしれない。それでももしかしたらと思い、来てしまう自分が情けなかった。あんなにはっきりと拒絶されてしまったのに、気がつけば影を追っている。欠け片だけでもと探している。未練たらしく。
「これまた格好な場所を選んだもんだな」
 気がつけば待ち人が近くにいた。気配を完全に消してやって来たのだろう。さすがだと俺は苦笑する。
「こんなところに二人でいたら、襲われても仕方ないぜ?」
「襲う価値もないです。今の俺は」
「そりゃ違うだろう。価値なんてもんは、俺が決める」 
 ついと手が伸びて、頬から項へと差し込まれた。俺の待っていた人物、羅垓が迫る。
「俺にとっては、お前は充分価値ある奴だぜ?」
 向けられた視線がつい先日と同じものだったから、俺は更に申し訳ない気持ちになった。こんなにしてくれる人に、自分の意志を告げるのは辛い。しかし、これだけしてくれる人だからこそ、敢えて告げねばならない。
「特務三課に異動希望を出しました」
 一息に言った。
「すみません」
 目を閉じて詫びる。それで済むものではない。けれど、心を込めて。
「・・・・・謝んなよ」
 大きなため息と共に、羅垓は告げた。空いた手でがりがりと頭を掻く。
「そんな顔で謝られたら、何も悪い事出来なくなるじゃねぇか。腹いせに、ヤっちまいたいくらいなのによ」
 くしゃりと顔を歪めながら、男は言った。俺は胸が痛くなる。なにか、償える方法を探して。
「・・・・羅垓さんが、お望みでしたら・・・」
「馬鹿。そんな情けねー事できるか」
 ぐぐっと項の手の力が強まって、俺は羅垓の胸に引き寄せられた。熱い肌。遠くに鼓動が聞こえる。
「これぐらいは勘弁しろよな」
 頭の上で羅垓の声が響いた。
「まったく運がねーよなぁ。本気になった奴ほど、こっちを向いちゃあくれねぇ。けど仕方ねぇよな。事実なんだから」
「羅垓さん・・・」
「もっと楽な方に流れていいのによ、俺の好きになった奴は、そっちにゃ行かねぇ。あいつもそうだった。なんでかね」
 あいつ。羅垓の「対」だった人。その時知った。彼がまだ、その人を思っていること。
「辛いぞ」
 羅垓の声。包み込むように響いてくる。その心地よさが、胸に痛くて・・・。
「離れても、それが実を結ぶかとうかはわからねぇ。結ばずに終わる事の方が多い。それでもなんだな?」
「はい」
「じゃ、しょうがねぇな」
 するりと項の手が離され、羅垓の胸が離れていった。俺は見上げる。
「元気でな」
「羅垓さんっ!」
 踵を返そうとした羅垓を、俺は慌てて引き止めた。あの時もらった笄を取り出す。
「あの、これを・・・」
「見せてくれねぇかな」
「え?」
「さしてくれよ。髪に」
 告げられ、相手の意図するところを知った。結わえた髪をほどき、手早く纏め上げる。
 しゃらん。
 銀色の笄をさした。かつての母のように。羅垓が目を細める。
「きれいだぜ」
 言葉と微笑を残し、赤銅の男は去っていった。そしてその翌日。
 特務三課の主任予定だという桐野藍という人物から、御影長へと返事が届いた。
 それは三日後にその人が御影宿舎を訪れ、俺を面接するとの旨だった。