呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT23

『来るか?』
 羅垓の告げた言葉。
『あいつともうダメなら・・・・俺と来るか?』
 奴は俺のしてきたことを知っていた。その上でああいうのならば、本気で俺を欲しているというのだろうか。
だけど・・・。


「例の話じゃが、考えておるか?」
 茶を飲みながら御影長が訊いた。俺は湯のみを置く。
「はい・・・・まあ」
「すまぬな。急がないと言うておったが、あちらは早急に探しておるらしい。候補者だけでもと言うてきおった」
「それは、性急ですね」
 俺は驚いた。まだ開設まで半年もあると言うのに。余程入り組んだ内容を扱う部所なのか。
「一人の、やり手の男が主任に確定しておる。総務部にも情報部にもツテの多い輩での。厄介じゃな」
 御影長はお茶を飲み干し、嫌そうに溜め息をついた。俺は苦笑する。
「よく考えておけ」
「わかりました」
 答えて俺は大きく息をついた。お茶を一口含んで、口内を潤す。
 考えて、決断しないといけないらしい。
 どのみちこのままではいられないと言うことか。
「それと、この書物を書庫へ返して置くように」
 考え込む俺に、御影長が命じた。


「よっと」
 両腕で書物を抱えて、俺は御影宿舎の廊下を歩いていた。書庫へと向かう。角を曲がって、前方に見覚えのある後ろ姿を見た。
 黒髪。流とさほど変わらない背丈。どちらかというと筋肉質な身体。
「土岐津」
 呼ばれた青年は振り向いた。黒眼。バサバサの強い髪。土岐津だ。
「あ、海瑠先輩」
「久しぶりだな」
 こいつは土岐津千早(ときつ ちはや)といい、二年後輩にあたる「御影」だ。流が気にいっていて、学び舎時代からよく関わっていた。
「調子は?『水鏡』は決まったか?」
「調子はまあまあですよ。『水鏡』は、残念ながら決まってません」
「そうか・・・・」
 土岐津の気の波長は少し特殊だ。よく探ってみたら同調できない事はないのだが、あのクセのある波長につきあえるのは、「水鏡」としてそれなりに力を持つ者になるだろう。
「おれとぴったり同調してくれる人って、閃さんとか海瑠先輩とかレベル高すぎなんですよ。トーゼンできるだろう水木さんは斎先輩と組んでるし、海瑠先輩たちも『対』持ちだし。当分は、とっかえひっかえおれが合わせてやってゆくしかないですね。半端モンはつらいですよ」
 苦笑と共に土岐津は告げた。手に持つ袋ががさりと揺れる。
「楔(せつ)の手がかりは?」
「それもないです。本当はある方が嬉しいんだけど」
 土岐津には保科楔(ほしな せつ)という親友がいた。彼は「水鏡」で、土岐津の気に同調できる貴重な存在だった。実力も充分あったのだが、「御影」をやめてしまった。
「元気でいればいいんですけど」
「・・・・そうだな」
 土岐津は言わないが、楔がここを去ったのは「新人歓迎会」が関係しているらしい。二人微笑ましい関係だっただけに、痛ましさが残る。
「先輩、どこいくんですか?」
 土岐津が訊いた。
「どこって、見ての通り書庫だ。御影長に頼まれて本を返しに行くところだ」
「書庫、ですか・・・・・」
 俺の返事を聞いて、土岐津は何故だか口ごもった。何やら真剣な顔で考えている。
「・・・土岐津?」
「海瑠先輩、頼み事していいですか?」
「あ?ああ」
 あまりに必死な顔して言うから、つい頷いてしまった。土岐津が目の前に迫る。
「この荷物、書庫に持っていってくれませんか?書庫の奥に持ってくるよう、おれ、頼まれて・・・。でも、ちょっと用事があるんです。お願いします!」
 ペコリと頭を下げられて、拒むわけにはいかなかった。「構わない」と応じる。土岐津はホッとした表情になった。
「じゃあこれ、宜しくお願いします。奥に人がいると思うんで、その人に渡してください」
 荷物を俺の腕にひっかけ、土岐津が踵を返した。何度か振り向きながら去ってゆく。
「お願いしまーす!」
 最後に大きく言って、土岐津は角を曲がっていった。苦笑いで見ていた俺は、前を向く。
 やれやれ、行ってみるか。
 ため息一つついて、俺は歩きだした。


 午後の日差しが差し込む書庫は、温かい空気に包まれていた。柔らかな光。室内を照らしている。
「よいしょっと」
 俺は御影長に頼まれた本をカウンターに置いた。パンパンと手を叩き、土岐津に頼まれた袋を持つ。袋からはいいにおいがした。
「あの、すいません」
 奥へと声を掛けたが、書庫の奥の部屋からいらえはない。
 いないのかな。
 思って、扉に手をかけた。このままにしておくわけにはいかない。せめて、中にこれを置いてこよう。
 ぎい。
 軋んだ音をたてて、扉が開いた。俺は中に入って見渡す。
「誰も、いませんか?」
 出した声を静まり返った室内が受け止める。誰もいないか。仕方がない。
「ここに置きま・・・・っ!」
 少し離れたところにある机に袋を置こうと進んで、気づいた。誰かいる。
「・・・・・あ」
 俺は目を見張った。本棚と本棚の間の細い通路に、流がいる。
「流・・・」
 流は眠っていた。俺の気配にも目を覚まさないから、よほど疲れているのだろう。あちこちに巻かれた包帯。細かい傷が無数にある。汚れた任務服。任務でついたのだろう、細かい砂が叩かれずにそのままついている。泥だらけの靴。

『ああ』
 胸が締めつけられた。
『どうして今頃、気づくのだろう』
 気づいた感情が溢れてくる。
『どうして、傷つけてしまったのだろう』
 溢れて、流れ出して止まらない。
『こんなにも、流が好きなのに』

 自覚したら、止まらなかった。

『触れたい』 
 素直に思った。床に膝をつく。
『あの髪に、唇に』
 荷物を降ろし、そろそろと手を伸ばす。
『傷ついた頬に』

「何してるんだよ」
 声に我に返った。見据える茶色の瞳。流が目覚めている。
「何でおまえが、ここにいんだよ」
「書物を、返しに・・・それと、これ・・・」
 思いだし、土岐津から預かった荷物を差し出した。起き上がった流が、怪訝にそれを見つめる。
「ちっ」
 ばしり。流がそれをひったくった。俺は残った自分の手を見つめる。
「帰れよ」
 鞭のような声。
「用は済んだろ。帰れよ!」
 言葉が錐のように突き刺さる。俺は言われたとおりにしようとして、動かない身体に気づいた。

 震える。
 手が。腕が。肩が。
 足にも力が入らない。
 ただ、止まらない震えを抱えて。

「おまえが行かねぇなら、オレが行く!」
 流が立ち上がった。戸口へと向かう。向けられる背中。
「流っ!」
 声を絞り出した。叫びに近い声を。瞬間。流の身体が止まる。
「海瑠。もうオレに構うな」
 固い声。ばたん。扉が音をたてて閉まった。俺と流を隔てて。
「・・・・・流」
 俺はがたがたと震える己の身体を、ぐっと両手で抱きしめた。