呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT21

 母さんの夢を見る。
 何か言ってるけれど、聞こえない。
 母さん、どうしてそんな顔をしてるの?
 泣かないでよ。
 母さんは、海に呼ばれたじゃない。


「あらかた、覚えたようじゃの」
 午後の御影長室。現御影長である飛沫様が言った。ばさりと手に持つ書類を置く。こちらへと押しやった。
「訂正箇所はなしじゃ。処理しておけ」
 俺はこくりと頷き、書類を書類棚に分類する。
「茶を、入れてくれんかの」
「はい」
「これも焙れ。斎が持ってきおった」
 出された紙包みを開いて、俺は笑みが漏れた。いくつか束になったスルメが入っている。
「あやつもいろいろ気を回し過ぎじゃ。全く、『対』の男に少しも影響されぬわ」
「そこが桐野のいい所なのでしょう。実際、助かっています」
 渋い顔の長に、俺は微笑みながら返した。事実その通りだ。心身ともに不安定な俺は、桐野の世話になりっぱなしだ。滅入っている時に届けられる温かい料理。それに、どれほど力づけられたか。
 水木さんが手放さないのも、頷けるな。
 しみじみと納得していた。一見、桐野は平凡だ。とても力のある「御影」には見えないし、言動も控えめだと思う。けれど桐野は温かい。人を受け入れる広さがある。そしてその奥には、しなやかで強靱な心を持っている。姑息な手段など使わない、潔い心も。
 敵わないよ。
 改めて自覚した。最初から俺は、桐野の足元にも及ばなかったと。
 本当に、敵わない。
 「試練」をなんとか逸らそうとした俺と、真っ向から受け止めた桐野。いつぞや桐野を自分と同じ場所まで引き込もうとしたことまで思いだして、俺は言葉がなかった。どうして持たなかったのだろう。事実を受け止める勇気を。流を信じる心を。たとえ「試練」が流を壊したとしても、流なら立ち上がってきただろうに。

 俺は怖れたのだ。そして、逃げ出した。
 受け入れることから。立ち向かうことから。信じることから。

「おぬし、事務仕事は好きか?」
 御影長が尋ねた。俺は少し考える。
「そうですね。嫌いではないと思います」
 煎茶を置きながら告げた。御影長が湯のみを手に取り、一口茶を啜る。
「では、新しく『対』を組む気は?」
「それは・・・・・まだ・・・・」
「ないと言うのじゃな」
「・・・・はい」
「ふむ」
 ほうと息をついて、隻眼の長は黙り込む。少し気まずい沈黙。俺は、スルメを焙った。
「ここを、離れてみぬか?」
 焙ったスルメを差し出した時、御影長がぼそりと訊いた。
「都の情報部より、事務員の募集がきておる。なんでも、新設の課ができるとか。名を、特務三課という」
 スルメを契りながら、御影長は言った。ゆっくりと間をおき、言葉を継ぐ。
「表向きはただの諜報活動。裏では『御影』の業務もこなすとのこと。できれば、現役の『御影』か『水鏡』をと打診されておる。おぬしなら、文句なく務まるじゃろう」
 告げられ俺は混乱した。思いもかけない話。都へ。流と離れて。
「飛沫様・・・・」
「このままいても、あやつは変わらぬ。おぬしも然り。時に距離を置いて、見えることもあるじゃろう。なに、急ぐ話ではない。課の新設は半年後じゃ。時間はあるゆえ、じっくり考えておくがよい」
 宥めるように言われ、俺はやっとのことで頷いた。


 特務三課、か・・・。
 夜。皆が食堂で舌鼓を打つ頃、俺は東館の談話室にいた。深く長椅子に座りこみ、身体の前に組んだ手を見る。白くて丸い爪。女のそれのような。
 一度異動してしまったら、すぐには帰ってこれないんだろうな。
 当たり前のことを考えている自分が嫌になった。都の、それも新設される課なのだ。課の運営が順調にいくまで、自由にはならないだろう。
 しかし、今のままではどうにもならない。 
 それは明白だった。このまま御影長に甘えたまま、お荷物でいていいわけがない。自分のこれからの身の振り方を、考えなければ。
「いいねぇ」
 上から落ちてきた声に、顔を上げた。見下ろす赤銅の瞳。同色の髪に浅黒い肌。羅垓だ。
「・・・・羅垓さん」
「そういう顔してっと、扇情的でたまんねぇな。誘われてるみたいだ」
 にやりと笑って男は言った。どかりと隣に座り込む。
「ほら、土産だ」
 ごそりと包みを差し出す。中を開いて俺は驚いた。銀の笄。細かい細工が施してある。一つだけついてる小さな鈴が、しゃらんと鳴った。
「ほんとは耳かざりか何かの方がいいかとも思ったんだが・・・・・お前の髪に、合うと思ったんだ」
 そっぽを向いたまま、ぼそぼそと羅垓は言った。銀色に光る笄。よく母がこういう笄で髪を結っていた。小さな花がたくさん付いていて、動くとしゃらしゃらと音をたてて・・・。
「耳の石、あいつ、砕いちまったんだってな」
 苦笑しながら男が言った。俺は頷く。
「すまない。由来はどうあれ、値の張るものだったろうに。あれ以上のものを、お前は社銀生に払ってきたのに」
「いえ・・・・」
 真摯に詫びる顔に、俺は首を振っていた。違う。それは、この男のせいじゃない。
「俺が悪いんです。あの人と・・・・銀生さんとのことが終わった時に、あの石をさっさと外せばよかったんです。でも、俺は未練がましくて・・・・・。『取引』なんて建前です。俺は、あの人に依存してました。そして、たぶん羅垓さんにも・・・。・・・・・誰かに自分を壊させることで、俺は俺を保っていたんです。流のために犠牲になる。そうしないと、自分にはあいつの傍にいる資格がないと思って・・・・でも結局、自分が犠牲になることで、俺は流を縛っていました」
「そうか・・・・」
 羅垓は煙草を取り出し、火をつけた。白い煙を吐き出す。ゆっくりと。
 ゆらゆらと揺らめく煙。
 それをはき出す男の頬を、撫でるようにして上がってゆく。
「俺の『対』な、自殺したんだ」
 しばらく煙草をふかした後、羅垓はぽつりと言った。
「えらく気の強い水鏡でよ、和の国でも名門の出だと言ってた。実力もあったし、そんなあいつには堪えられなかったんだろうな。他の国出身の、学び舎も出てない俺の『水鏡』は・・・・。あいつ、いつも言ってたぜ。『おまえは自分にふさわしくない。自分は、もっとすごい人の水鏡になる』ってな」
 紡がれる言葉。羅垓はそこまで言って、深く煙草を吸った。大きく吐きだす。
「俺はな、仕方がないと思っていた。そいつとは年も二つしか違わなかったし、俺の身分なんてないに等しかった。それでも組んでいくうちに、少しはお互い近づけると思ってたんだ。でも、無理だった」
 それまで懐かしそうに話していた羅垓の顔が、苦しそうに歪んだ。俺はじっと見つめる。この全て割り切ったような男に、こんな生身の顔があったなんて。
「あいつ、急に機嫌が良くなってな。自分はすごい人と組むんだ。おまえなんかお払い箱だって笑ってた。もう少ししたら、あの人が自分と組んでくれるんだってな。だけど日にちが経つにつれ、あいつはどんどん元気がなくなっていった。俺はわけを聞こうとしたけど、あいつは拒絶するばかりで・・・・・・ある朝、ふっつりといなくなっちまったんだ。そして数日後、見つかったあいつは、冷たくなっていた」
 羅垓が煙草をもみ消す。
「羅垓さん・・・」
「後からよ、手紙が出てきたんだ。あいつが書いた手紙。それも俺の任務服から。いつのまに入れたんだろうな。それには、一言詫びの言葉が書いてあった。正直やり切れなかったよ。俺は謝って欲しかったんじゃない。あいつに生きていて欲しかったんだ。たとえ俺を蔑んでても、やな事ばっかり言ってても・・・・」
 命を絶った羅垓の『対』。彼は何を考え、そうしたのだろうか。彼を追い詰めたのは、何か。
「後で俺は、あいつが社銀生と接点を持ったことを知った。あいつは奴を待ってたんだろうな。けれど奴は二度と現れなかった。思えば、奴としては軽く遊びのつもりだったんだろう。でも、あいつのプライドはそれを許さなかった」
 あの人と「取引」している時、自分のような存在が何人もいることを知っていた。彼らがどうなったのかを俺は知らない。ただ自分が一方的に「取引」を解消されないように、努力するだけで精一杯で・・・。
「海瑠。お前があの銀生と五年も続いてるって知ってな、俺は不思議でならなかったよ。銀生の噂は聞いてたし、お前が何を考えているのかわからなかった。だからお前が誘ってきた時、乗らずにはいられなかったよ。・・・・お前のことが、知りたかった」
 羅垓の指が、俺の顎をとった。しゃらん。手に持つ笄の鈴が揺れる。
「来るか?」
「え・・・」
「あいつともうダメなら・・・・・俺と来るか?」
 落とされた言葉。鼓膜に染みこむ。思考を奪って。
「どうする?」
「その・・・・考えさせてください」
 何とかそれだけ言った。うまく考えられない。何故そんなことを?
「ちょっと・・・・性急過ぎたか」
 苦笑と共に零して、羅垓はガリガリと頭を掻いた。立ち上がる。
「ま、しっかり考えてくれよな」
 ポンポンと俺の頭を叩き、羅垓は去っていった。遠ざかる大きな肩幅。
 俺は、見送るしかなかった。