呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT20

 失って初めてその存在の大きさを知る。
 同時に、自分という存在の小ささも。


「またあなたですか・・・・」
 その医師であり科学者の男は、ズレた眼鏡を指で引き上げながら言った。茶色の柔らかそうな髪と、同色の目。結構年上のはずなのに、それを感じさせない童顔。
 男は柊宮居といい、御影研究所の職員だった。こうして二週間に一回位の割合で、ここ御影宿舎の医務棟にやってくる。
「で?今日はどうしたんです?この間の傷は塞がりましたか?」
 オレは黙って左腕を出した。二の腕外側から肘にかけて走る傷。巻いた包帯には、うっすらと血が滲んでいる。
「・・・・・動かさないようにと言ったはずですが?」
「任務だったんだ」
「診断書は書きました。提出しましたか?」
 ぎろりと睨まれ、オレは笑って誤魔化した。男の目つきが更に険しくなる。研究者はぐっと唇を結び、包帯を解き始めた。
「あの・・・いいんすか?」
「見ないとわからないでしょう!じっとしてください!」
 弾くように返され、オレは縮こまって縮こまっておとなしくした。宮居さんが手早く包帯を外す。
「あーあー!」
 あきれ返った声が響いた。瞬間、オレは次の一撃を予感する。
「悪くなってるじゃないですかっ!」
 予感は的中した。男の首の辺りの肌が、うっすらとピンクに染まっている。うわ、こりゃ本気だよ。すっげぇ怒ってる。オレの手首を握り締めたまま、研究員はぜいぜいと息を整えた。
「・・・・・宮居さん?」
「どうやったらこうできるんでしょうね!縫った傷は開いてる、おまけに化膿している!ふつう、安静にさえしていれば、人間自然治癒力である程度治ってゆくんですけどね!」
 今度は嫌味攻撃だった。ちくちくどころか、ブスブスと刺してくる。
「あのさ、なんとかなんねぇ?」
「しなくていいなら、やりませんが?」
 むっつりと返され縮こまった。くわばらくわばら。この人結構おっかねぇよ。気をつけないと、次がくるぞと。
「まったく、いらぬ手間を掛けないでください」
 大きくため息をつき、宮居さんは立ち上がった。処置室へと向かう。ガラガラと物品の置かれたワゴンを持ってきた。
「そこに横になってください」
 処置台を指して研究者が告げた。オレは言われた通り、処置台に横たわる。ガサガサ。腕の辺りに緑っぽいシーツがひかれた。消毒液に浸された綿球が、ピンセットでとられて傷に押し当てられる。
「いてっ!」
「静かにしてください」
「だってさ・・・」
「だってもあさってもありません。ちょっと黙ってください」
無言で研究員は消毒し続けた。怒りのオーラが漂う。びくびくとオレは、様子を窺った。
「もう終わった?」
「まさか!」
 こわごわ伺うオレに、研究員は笑顔で答えた。
「全然、まだですよ。この傷、組織が一部壊死していますからね。まずは洗浄して、壊死部分を切除して、再縫合します。今度は傷が開かないように、しっかり!縫合しますね」
 あまりに痛そうな内容。オレは声もでない。
「・・・・あの」
「大丈夫ですよ。ちゃんと麻酔はしますから」
 満面の笑みで答える研究員に、オレは顔を引きつらせるしかできなかった。まるきりあてが外れた。前回傷を見せた時、この人すげぇ親切丁寧に治療してくれた。だから、今回もちょっと怒られるだけだと思っていたのだ。
「始めますよ」
 無慈悲に声が掛かる。
「・・・・はい」
 オレは大きく息を吸い込み、覚悟を決めた。


「あー、えらいメにあった」
 午前中の書庫、そのまた奥の間で、オレは先程縫い直した腕を見つめていた。
「しっかしまあ、ぎちぎちに縫ってくれたよな。これじゃ動かねぇよ」
 ブツブツとぼやく。動かさないようにしたんですと宮居さんの声が聞こえてきそうだけど、それは敢えて無視した。
「かっこわりぃ」
 一人呟く。実は傷はこれだけじゃない。単独任務を始めてから、毎回どこかに傷を負っている。幸いそれらは命に関わるような傷ではないのだが。でも海瑠と組んでた時のことを思うと、それらはあまりにも頻回すぎた。
 でも、これが実力、なんだよな。
 しみじみと思う。攻撃に対してこの防御の薄さ。ここ二週間ほどで、オレは痛感していた。自分の張る結界は薄い。それも防御結界と程度の低い攻撃結界しか張れない。それも何重も重ねて張るなんて器用なことができないから、容易く破られてしまう。
『流。二重結界、教えてやるから。最低限、自分を守れるようにしておかないと・・・・』
 海瑠の声が聞こえた。海瑠は何度も言っていた。もっと結界力をつけようと。一緒にやろうと。これから必ず必要になるからと。
「結局、全部あいつが考えてたんだよな」
 苦笑が漏れる。オレは「自分」と「今」しか考えていなかった。けれど海瑠は違った。あいつは「オレ」も「未来」も考えていたのだ。当然のこととして。
「上総先輩、どこですか?」
 ひょこりとバサバサの黒髪が見えた。きょろきょろと見回している。オレは声を上げた。
「こっちだ、土岐津」
「あ!そこですかー」
 手に持つ袋をガサガサと揺らしながら、土岐津はやって来た。こいつは土岐津千早(ときつ ちはや)といい、一昨年ここに配属された「御影」だ。学び舎の後輩であり、今は北館に住むオレの隣人でもある。 
「食料、持ってきました」
「さんきゅ、助かる」
「いーえ!先輩にはお世話になってますし、この位おちゃのこですよ」
 にかりと土岐津は笑った。実は北館に来て以来、オレはこの後輩に世話になりっぱなし状態だった。食堂に行けば、海瑠に会ってしまう。だからオレは、最近もっぱらこの書庫の住人だ。
「何持ってきたんだ?」
「握り飯です。それとつけものと、そうそう、食堂のおっちゃんがこれ持ってけって」
 竹の皮に包まれた握り飯と、ホカホカと温かい紙袋を手渡された。香ばしい油の臭い。これ、コロッケかな?
「ミンチカツです」
 オレの疑問を見てとったのか、土岐津が答えた。
「ミンチカツかー、おっちゃん、忘れてなかったんだな」
 ちょっとじーんきながら、オレはミンチカツにかぶりついた。う、うまい。
「はー、うまいー」
「先輩幸せそうに食いますねー」
「そうか?」
「はい」
 そういえば海瑠もよくそう言っていた。食にあまり執着のないあいつには、オレはどう映っていたのだろう。
「先輩」
「なんだ?」
「いつまでこうしてるんですか?」
 ミンチカツを楽しむオレに、いきなり直球が来た。驚いたオレは土岐津を見る。真っ黒の瞳の中に、逃げ腰のオレがいた。
「海瑠先輩とは、もう組まないんですか?」
 まっすぐ見つめる視線。この後輩は言葉を飾らない。曖昧な言葉もなれ合いも苦手だ。だから学び舎時代、気に入っていろいろ教えていたのだ。
「組めねえんだよ」
 取り繕っても仕方ないので、オレは正直にそう返した。そうだ。組めない。今のオレじゃ。
「組めない、ですか・・・」
「ああ」
「・・・・・」
 落ちる沈黙。土岐津はそれ以上、何も訊かなかった。ただ、黒い目だけが、じっとオレを見つめる。
「土岐津」
「はい」
「おまえ・・・・・『新人歓迎会』、あったか?」
 沈黙に耐えられなかったオレは、その問いを後輩に投げた。ずっと、胸にくすぶっていた疑問。オレだけが知らない、『新人歓迎会』。
「ありましたよ。もちろん」
 苦笑いを浮かべ、後輩は言った。
「なんか、されたか?」
「されましたよー。腕一本、ばっきり折られました。・・・・・おれはそれで済んだんですどね。同期の奴が・・・」
「どうしたんだ?」
「一人、やめました。気の強い奴だったんだけど、あれはちょっと辛かったみたいで・・・・」
 土岐津はぽつりと言い、黙り込んでしまった。オレも口を閉じる。今まで見たことのない、後輩の寂しげな表情。
「・・・・そっか」
 オレはやっとそれだけを言い、冷えてしまったミンチカツを齧った。


「じゃ、おれはこれで」
 いつもの表情にもどって、土岐津は去って行った。後にはオレが残る。オレと物言わぬ書物たちが。
「みんな、あったんだよな・・・・」
 呟きはひとりでに漏れた。感じる後ろめたい気持ち。あいつの影。
「畜生」
 悔やんでも時間は取り戻せない。ひしひしと感じながら、オレは一人、奥歯を噛みしめた。