呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT19

 固く結ばれていたはずの糸が、ほどけてゆく。
 なんのことはない、片方の糸にもう片方の糸が絡んでいただけだ。


「あやつ、『対』の解消を言うてきおったわ」
 昼下がりの御影長室。俺は御影長に呼ばれていた。隻眼の老人が、流の動向を告げる。
「『一人でやりたい』と、言い張りおっての。相変わらず、自分勝手な奴じゃのう」
「・・・・すみません」
「よい。お前の詫びることではない」
 御影長の言葉はもっともだった。流が俺との『対』を解消したのなら、俺はもう流の『水鏡』ではない。かろうじて義兄という立場は残っているが、それは流にとって大した意味を成さないだろう。もともと流は俺が義兄として振る舞うのを好まなかったし、流の父にいくら怒られても、俺を兄とは呼ばなかった。俺は所詮血縁がないから仕方がないと思っていたし、流から多くのものを学んだ自分が、流の兄という位置にいることに違和感もあった。だからそう、深くそれにこだわっていなかったのだが。
「流は・・・」
「先週から単独任務に入っておる。取り敢えず、なんとかこなしておるじゃな」
 困ったように顔を歪めながら、御影長は言った。俺は小さく息をつく。
「まあ、あやつのことはよい。今日はおぬしのことで呼んだ」
「俺、ですか」
「そうじゃ」
 流に「対」の解消を言い渡されて数日。不眠に食欲の減退した俺は風邪をひいた。斎の看病で熱が下がってきたのは昨日。寝台から起き上がったのは、今日のことだった。
「何もせぬやつをここに置いてゆくことはできぬ。おぬしにも、なにか仕事をさせなばな」
「・・・・はい」
 病床にいた俺は、ずっと何も考えられないでいた。後悔ばかりが自分を苛む。これからのことを何度も考えねばとは思っていた。けれどすぐに流の顔が浮かんで、頭はいつもそこで硬直した。
「おぬしほどの技量を持つ者ならば、誰とでもやっていけるじゃろう。現に数名の『御影』より、おぬしとの『対』変更の希望が出ておる。新しく『対』を組むならば、ここから選ぶがよい」
 ばさり。数枚の書類が手渡された。古参の者から新人まで、あらゆる「御影」の名前が記してある。皆、俺なんかとの『対』を希望しているのか。信じられない。
「どうする、『対』を組むかの?」
 面と向かって問われて、俺は戸惑ってしまった。新しい「対」。誰かと一からやり直すのか。それには気持ちがまた切り替わっていない。こんな不安定な精神状態では、相手に迷惑がかかる。俺は首を振った。
「その気はない、か。では困ったのう・・・・・」
 残念ながら、特別な場合を除き、「水鏡」単独の任務はない。なぜなら「水鏡」の任務のそのものが「御影」の補佐であり、防御であるからだ。
「『御影』も合わせてやってみるか?前例がないわけでもなし。あやつより、おぬしの方が適性があると思うが?」
 「御影」が多く取り扱う潜入任務に、もっとも必要とされるのは結界。それも、防御や攻撃ではなく遮蔽結界、封印結界が必須とされる。
「いいえ。俺に『御影』は・・・性に会いません」
「そうじゃな」
 苦笑で答える俺に、御影長は苦笑で返した。大きく息をつく。
「しかたないのう」
 がさり。隻眼の老人はひきだしを探った。なにやら紙の束を取り出す。御影長室の奥にある、小さな机を指差した。 
「当分は事務仕事をやっておれ。わしの雑用係じゃ」
 紙の束を手渡され、筆記用具と印を手渡された。
「申請書類のチェックと情報整理を。わからぬところは持ってこい。資料はその机に入っておる」
 ため息交じりに告げられ、俺は小さな机へと向かった。


「海瑠くーん。元気?」
 夕刻。一通りの事務仕事を覚えて、部屋に帰ることを許された俺は、食堂で夕食を摂っていた。細々とぞうすいを啜っていたところに、声を掛けられる。
「風邪だってね。もういいの?」
「なんとか・・・・」
 声の主は桧垣閃さんだった。隣には、榊剛さんもいる。今日は二人で任務だったらしい。
「海瑠くんって、あんま身体強くないよね。小食だし」
「はあ」
「肉食え。お前、痩せ過ぎだ」
「だってさ。ちょっとは身がついてないと、剛ちゃんとしてもつまんないんだって。縛り甲斐ないらしいよ」
「うるせえ」
 桧垣さんと榊さんの会話。俺は曖昧に笑う。たしか榊さんって、縛りながらあの行為をするのが趣味だと聞いた。
「流のやつ、『対』解消したってねー。聞いたよ」
「はい」
「ホント困った奴だよねぇ。あれから会ってないの?」
「・・・・はい。部屋も、移ったみたいで・・・・」
 苦笑いで答える。どこか別の部屋に行ったことは知っていた。風邪で臥せっていたあの日、扉ごしに聞こえてきたから。
『上総くん!待ってくださいっ』
 呼び止める斎の声。外に感じる流の気。扉の閉まる音。
 ぎし。ぎし。ぎし。
 足音はゆっくりと遠ざかっていった。規則正しく。止まる気配など微塵もなく、だんだん小さくなっていく。

 ああ、行くのだと感じた。
 流は俺などに見切りをつけて、行ってしまうのだ。
 余計な枷を振り払って、あいつは自由に飛び出してゆく。
 当たり前だ。流は、望んではいなかった。
 枷をつけていたのは・・・・俺。

「まあ、探せばどこにいるかわかるだろうけど、見つけ出しても無駄だもんね。当分の間、放って置くしかないかー」
 ガリガリと頭を掻きながら、桧垣さんが言う。
「ほっとけ。甘やかすからああなんだよ」
 ぼそりと榊さんが返した。俺は何も言わない。何も言えない。
「今さ、単独任務こなしてるんでしょー?流ちゃん結界苦手だからねぇ」
「気にすんな。あいつだって『御影』の端くれだ。なんとかするだろうよ」
 話し続ける二人を他所に、俺は窓の外を見つめる。外には冷たい秋雨が降っていた。

 雨の中にあいつを思う。
 もう、想う資格もないけれど。
 それでも、無事でいて欲しいと願う。
 心から。

 俺は外を見つめ続ける。雨は降り続いた。心の外にも、内にも・・・。