呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT2

 その人との交流は、もう五年にも及んでいた。別段頻回なわけではない。ほぼ月に一度、俺は都でも老舗の料亭、「吉膳」を訪れる。
「いらっしゃい。先にやってたよん」
 通された座敷の間には、一人の男が待っている。黒髪に黒眼。一見、のんびりとした風貌の男が。
「お久しぶりです」
「そうねー、ここんとこ結構忙しかったから。もう一月半ぶりになるのかな?」
「はい」
「そっかー、そりゃ寂しかったねぇ。今夜はその分、埋め合わせしなきゃ」
 心にもないことをその人は告げる。本当に忙しかったかどうかはわからない。自分と同じような存在が、他にも複数いると知っているから。寂しさの埋め合わせもただの言葉あそび。こちら側の気持ちなど、この人にとってはどうでもいいことだ。ただ自分の方を向いている。それだけが必要条件。向けられる感情は、どんな内容でも構わないらしい。
「なんか食べる?」
「いいえ。夕食は宿舎で済ませてきました」
「そうなの。んじゃこっちは?今日の酒はいつもと違うよ」
「いただきます」
 答えて前に進み出た。卓について両手を伸ばす。杯を受けとった。
「今日はね、冰の国の吟醸酒なのよ。どう?」
「・・・・おいしいです」
 きりりとした辛口の酒。いつもとは違った。彼は俺と会うとき、俺の故郷である洲の国の酒を用意した。わずかな変化に目を伏せる。
「行こうか」
 誘いに瞼を開けた。漆黒が見つめている。その奥に、燃える情欲。
「はい」
 頷き俺は立ち上がった。奥の間の戸を男が、社銀生が開く。俺は大きく息を吸い込み、その部屋へと進んだ。


 その人と過ごす時間は、必ずしも苦痛ばかりではなかった。
 豊富な知識と見聞、任務に必要な情報。
 社銀生はあらゆるものを持っていた。それだけに。
 この五年間、俺は様々なことで自分を磨いた。知識も。術も。もちろん身体も鍛錬し続けた。
 身体の関係があるということに、甘える気持ちはなかった。むしろ、それを自覚した瞬間、この関係は終わるとさえ思っていた。


「ごめんねー。ちょっとキツかったかな?」
 暗闇に社銀生の声がした。俺は乱れたままの息を整えながら、声のする方へ顔をあげようとする。
「・・・っ」
「あららー、やっぱりキツかったか。そうだねぇ。今日は思いっきりやっちゃったもんねぇ」
 痛みに顔を顰める俺に、社銀生はのんびりと言った。ガサガサとする音。隣の間に何か取りに行っている。
「はい。取り敢えずこれ飲んで」
 ことり。近くに何か置かれた。おそらく枕元の辺りだと思う。飲んでと言うことだから、水か何かだ。
 推察して俺は手を伸ばした。そろそろと探る。どこに・・・あるのだろう。
「あ、そうかー。そうだよね」
 くすりと笑いが零れて、気配が近寄ってきた。ぐいと上体を抱き起こされて、くいとあごが持ち上げられる。びくり。不意に唇を繋がれ、身体が硬直した。
 とろり。
 体温を吸った水が口内に流れてくる。すこしなまぬるいそれをごくりと飲んだ。使い過ぎた喉の痛みと渇きが、すっと和らいでゆく。
「なーんにも見えないままじゃ、お前も困るよね」
 こめかみに熱い手が当てられ、ぴしんと小さな衝撃が頭に走った。封じられていた視力が徐々に戻ってくる。黒髪黒眼の社銀生が現れた。
「はい。これで術は解けたよ。それにしてもお前、相変わらず慣れないのね」
 俺に掛けた術を解き、社銀生は緩く笑った。困ったように言葉を継ぐ。
「目隠しでアレなんて楽勝なくせに、口づけだけはまだテイコーする。誰かに操立てしてんの?」
「それが出来るほど・・・甘くはないと思いますけど・・・」
 苦笑しながら返した。抵抗でも操立てでもない。口づけをする自分に、違和感があるだけだ。
「ま、それもそうだねー。俺もよそ見してる奴ごめんだし。何年経っても、お前は賢いねぇ」
 なでなでと頭を撫でられた。俺はじっと目を瞑る。子供扱いしているようなこの素振りも、遊びの一つと慣れてしまった。
「さーて、もうそろそろ行こっかなー」
「忙しいんですか?」
「まあね。いいよ、お前は朝まで寝てなさいよ。今日のお前にゃ、かなり無理させちゃったからねぇ」
 起き上がった身体が横たえさせられ、正直ほっとした。実は限界だった。もうすこし休まないと、身体が自由にならない。
「俺ねぇ、昨夜今まででいーっちばん!ガマンしちゃったのよ」
 乱れた夜着を脱ぎ捨てながら、社銀生が言った。
「・・・珍しいですね」
「そうでしょー?もう、すっごい極上の据え膳だったのよ。惜しかったねぇ」
 言いながら任務服に袖を通す。引き締まり均整のとれた身体が、黒い任務服の中へと消えた。
「あなたが我慢出来るほどの・・・・方だったんですね」
「そうなのよ。あんな面白い人いないよ。意外性の塊って感じ」
「どんな方ですか?」
 言葉が先に出ていた。言った後で覚悟する。今までこの人の交友相手を詮索したことはない。余計なことを言ったと悔やんだ時。
「そうだねぇ」
 拳でも術でも叱責でもなく、普通の声が返ってきた。ふだんと変わらぬ声音。不興はかってない。
「強いて言えばお前と反対、かな」
「俺と・・・・」
「そうだよ。お前がうまく流れて生きてゆく奴なら、あの人は逆行してゆくって感じだね。まるで自分が流れそのものを作り出してるとでも言いたげよ。すっごいでしょー?」
「・・・・そうですね」
 答えて再確認した。この人が「据え膳」を我慢までした人物。社銀生は、その人物に惹かれ始めている。
「がんばって我慢しちゃったのはいいけど、反動が強くてねー。お前にゃいい迷惑だったよね」
「いいえ・・・・大丈夫です」
 小さく首を振って答えた。別にいい。その分余裕がなかった。その分、何も考えなくて済んだから。
「次の任務、どこだっけ」
「江です」
「あそこは気をつけてねー。一見ボンクラが治めてるようだけど、側近に小ずるいのがいるから。後ろ楯持ってるかもしんないよ」
「ありがとうございます」
「じゃあねー」
 言いおき社銀生は部屋を去った。俺はまだだるい身体を、寝具に預けたままにする。疲れた。久しぶりだったこともあり、そのぶんダメージも大きかった。
 眠ろう。
 自分に言い聞かせる。朝になったらまた御影宿舎に帰らなければならない。帰れば次の任務の段取りなど、いろいろなことを考えなければならない。
 このまま・・・眠ってしまうんだ。
 すくなくとも朝までは考えなくていい。せっかくあの人が壊してくれたのだ。次々と考えなければ気の済まない、自動人形のような自分を。
 朝になったら・・・・また動きだせばいい。
 それに否応はなかった。どうせ自分の意志には関係なく、俺は考え動きだしてしまう。それはそれでよかった。
 社銀生と過ごす時間は、一時なりとも気の抜けない時間だった。言葉一つ、立ち居振る舞いの一つ一つでさえ手を抜けない。髪の毛一本まで張り詰めた俺を、社銀生は毎回容赦なく打ち壊す。粉々に打ち砕いて去ってゆく。張り詰めることと壊れること。この二つが俺にはなくてはならなかった。社銀生に壊された自分を、俺はまた新しく形作って御影宿舎に帰る。いつしか俺は、そのことで自分のバランスをとっていた。
 最初は義弟、流を「新人歓迎会」から守る為に持ちかけた「取引」だった。しかし今。
 社銀生との逢瀬は、俺が俺になるための「儀式」となっている。
「あの人を我慢させた人、か・・・・」
 やっと聞こえるかどうかの声で呟き、俺は瞼を閉じた。