呼ばない海   by(宰相 連改め)みなひ




ACT12
 
 波の音が聞こえる。
 海に向かう母さんが見える。一歩、一歩踏み出して。
 呼んでるの?母さん。
 海を渡るの?母さん。
 母さんには聞こえるんだね。母さんは、俺を守り切れたから・・・・。
 だから、行くんだね。


「おまえ、なんで木に登れないんだよ。つかえねぇな」
 そいつはまるきり馬鹿にした様子で俺に言った。俺は自分に湧き起こった、不愉快な感情を抑え込む。
「木くらい、おれのイトコのねーちゃんや弟たちだって登れるぜ」
「登れないんじゃない。登ったことないだけだ」
「じゃ、登れんのかよ」
「やってみないとわからないだろ」
「無理だよ」
「見もしないで言うな!」
 あまりにも決めつけた言い方に、思わず声を荒げてしまっていた。した後で後悔する。目の前のこいつは客の息子だ。今こいつの父親の相手を、母さんはしている。
 どうしよう。
 母さんに迷惑が掛かる。
「じゃあここで見ててやるよ。ほら、登ってみろ」
「・・・・わかった」
 再度挑発されて、受けないわけにはいかなかった。ここで争っても引き下がっても、母に迷惑が掛かる。そいつの言ったことを、やり遂げるしかなかった。
 やらなきゃ。
 俺はきゅっと唇を結び、木に登り始めた。落ちるわけにも降参するわけにもいかない。何度も枝を確認しながら、ゆっくり登ってゆく。怖さは感じる余裕がなかった。なんとかここを切り抜けなければ。それだけで、頭がいっぱいだった。
「わっ」
「バカ。ほら、掴まれ」
 夢中で上へ上へと進み、あと少しというところで気が緩んだ。足を滑らせる。もうダメだと思った瞬間、ぐいと手を引っ張られた。俺は驚く。さんざん俺を馬鹿にしていたそいつが、助けてくれたから。それが、流だった。
「うまいか?」
「うん、おいしい!」
 初めて登った木の上で、食べた木の実はおいしかった。母が身体と引き換えにした金で買う、売り物の果物とは比較にならないほど。外見は整っていなかったけれど、自分の力で手にしたそれは、なんともいえない味がした。
「こんなの初めてだ。すごく甘い」
 流が教えてくれた味だった。自ら掴むことの大切さ。掴むことの困難さ。その後の充実感。
 流が挑発してくれなかったら、ずっとこれらを知らなかったかもしれない。
 それまでの俺は与えられるばかりで、自分から何かを求めることなど、考えもしなかったから。
 あの時から俺の生活は変わった。母はいつの時からか客をとる商売をやめ、流の父に習って畑を耕し始めた。流の家の縫い物をしたり、食事を作ったりして。流の父と俺の母が結ばれたのは、それから半年ほどしてからのことだった。


「起きたか」
 馴染んだ声が響いて、俺は目を開けた。眠りが去り、視界が鮮明になる。声のする方に目を向けた。
「何か欲しいものあるか?水と、粥ならある」
 寝台の脇。そこには流が座っていた。めったに見ない神妙な顔。俺を見つめている。
「・・・・・あ・・」
「ひどい声だな」
 やっとのことで出した声は、ひどく掠れてしまっていた。喉がカラカラに乾いている。少し、痛い。
「水飲むか?」
「・・・ん」
「ほら」
 返事と同時にコップが差し出された。中には透き通る水。あらかじめ用意されていたのだろうか。
「・・・・・」
「飲めよ。いらないのか?」
「いや、もらう」
 水を受け取るために、身体を起こそうとした。鈍い痛みに眉を顰める。するといきなり背中が支えられて、口元にコップが迫った。少なからず、俺は驚く。
「すまない」
「謝ることじゃねぇだろ。飲め」
 ぼそりと促され、俺は水を飲んだ。ごくり。水の冷たさが、痛んだ喉に染みわたる。
「ありがとう。楽になった」
「粥食うか?それとももっかい寝るか?どっちだ?」
 飲み終わったコップを置きながら、流が言った。俺は辺りを見回す。ここは自分の寝台の上。裂かれた衣服は寝間着に着替えさせられている。下肢に不快感もないから、身体も拭いたのだろう。
「言えよ。どっちなんだ?」
「あ・・・・食べる」
 ぶっきらぼうな催促に、慌てて俺は答えた。流が「わかった」と頷く。食卓へととって返した。どこから持ってきたのか、寝台で食べられるような可動式のテーブルが持ってこられる。テーブルの上には小さな土鍋。ほんのりとだしのにおい。
「食えよ」
「・・・・ああ。いただきます」
 居住まいを正してそっと座る。匙を手に取り粥を一口食べた。温かい。口内に広がる鮭の味。だしの味と玉子のコク。ネギと隠し味の醤油。
「うまい」
「斎が作ったからな」
 むっつりと流に返され、俺はそうかと納得した。桐野なら、この味も頷ける。
「医務室探ってたら、斎にみつかったんだ」
 しかめっつらのまま流が言った。俺は苦笑する。医務室。ひょっとして流は、手当てとか考えたのだろうか。おそらくそうだ。気を失ってしまった俺を見て、びっくりしたのかもしれない。
「・・・すまない」
「だから、謝んなって!」
 いきなり声を荒げた流は、悔しそうに唇を噛み締めた。俯いて黙り込む。沈黙。
「・・・流」
「最初に言っとくからな」
 少しして、義弟は意を決したように顔を上げた。こちらに向き直る。茶色の目に、俺が映っている。
「オレは、謝るつもりはない」
 震えの混じる声。
「やったことを、後悔なんかしてない。おまえを離したくなかった」
 はっきりと流は告げた。告げられた俺は、言葉を探す。
「好きだ」
 何一つ言葉を返せないうちに、それは俺の耳に飛び込んできた。告白。流らしい、それだけな言い方。
「オレは、おまえが好きだ」
 流が宣言する。何も隠そうとしない鳶色の瞳が、ひたと俺を見据えていた。