禍事〜まがごと〜 




ACT12

 「九日九行」(くじつくぎょう)と呼ばれる行を終えたあと。
 藍はまる一日、臥寮の一室で眠り続けた。高熱と脱水症状。一時は都のしかるべき医療機関に移した方がいいのではという意見も出たらしいが、翌日の昼にはなんとか熱も下がりはじめ、夕餉の粥を摂ることができた。
 ひとくち、ひとくち、ゆるい粥を口に運ぶ。手が、まだ自分のものではないように感じた。
 情けない。だが、これが現実なのだ。
 認めよう。そうしなければ、次に進めない。
 粥には何種類もの薬草が入っていた。酸味と苦みの強いその味は、お世辞にも美味とは言いがたいものであったが、口に含むたびにじんわりと体内に浸透してくる感覚があった。おそらく、それはいま自分の体が欲しているものなのだろう。そう思って、藍は粥を完食した。
 ここに来て、まもなくひと月。そろそろ「水鏡」としての適正検査と実技試験があるはずだ。それまでに、なんとか体力を回復させねば。
 そんなことを考えていたとき。房の扉がゆっくりと開いた。
 臥寮では部屋に入るとき、いちいち断わりを入れない。修業中の身に個としての存在はなく、いついかなるときも、なにものに対しても開かれた状態でなければならないとされていた。
「叔父上……」
 房に入ってきたのは、篝だった。
「そのままで」
 夜具から出ようとした藍を、篝は制した。藍は夜具の上で居住まいを正した。
「略式ではあるが」
 篝は言った。
「おまえに、特務三課主任の内示が出た」
「……は?」
「明後日、登城するように」
「それは、どういう……」
「九代さまより、宣旨を賜る」
「え……」
 藍は耳を疑った。自分はまだなにも「水鏡」としての修業をしていない。それに、検査も試験も受けていないのに。
 そう言うと、篝はうっすらと目を細めた。
「必要ない」
 篝はすばやく印を組んだ。周囲に幾重もの結界が現れる。複雑に組まれたそれは、藍を一瞬のうちに拘束した。
「解いてみよ」
 冷ややかに告げる。
「死にたくなければ、な」
 その言葉に偽りはなかった。急激に息苦しくなる。視界が極端に狭くなった。強烈な封印結界。弱った体に容赦なくのしかかってくる。
「く……っ」
 なんとか腕を動かした。結界の波長を探り、同じ方向に解除のための波動を送る。いけるか。いや、もう少し強く。
 がくん、と、いきなりすべての抵抗が消えた。支えきれず、前方に倒れ込む。
 這いつくばったまま、なんとか息を整えようとしていた藍の上から、篝の声が降ってきた。
「『検査』云々は、時間稼ぎに過ぎぬ」
 時間稼ぎ。周囲を納得させるための。では実際は、あのときすでに決まっていたのか。
『それも、よいか』
 九代目御門がそう言ったとき。
「おまえは『水鏡』だ。学び舎を出たときから、ずっと」
 御門は藍を「水鏡」として御影本部に在籍させたまま、事務職に配した。自分の「手」として。
 藍はそろそろと顔を上げた。篝は懐から丸薬を取り出した。形状や匂いからして、御影本部でも使用している疲労回復の特効薬だろう。藍は薬を受け取った。
 一刻も早く常の状態に戻らねば。そして、自分に与えられた務めと、自らが目指す道をまっとうするのだ。
 「手」として「昏」を間近で監視し続けることと、あとは……。


 ごおん、と派手な音がして、中庭の一部がえぐり取られた。熱風がとぐろを巻いて吹き上がる。
「……っ!」
 防御結界の一部が破られた。すさまじい衝撃に、一瞬息ができなくなった。
 圧力に反発しないように飛びながら、結界を編み直す。だめだ。間に合わない。藍はクレーターのようになった地面に叩き付けられた。寸前に片手だけで張った結界で、かろうじて直撃を免れることができた。
 もうもうとした土埃の向こうで、銀生が薄く笑っている。右手が上がる。左手が複雑に印を組む。まずい。このままここにいては、逃げ場がない。
 体が思うように動かなかった。つい先日まで不眠不休の行にあり、そののちは高熱で伏せっていたのだ。万全の体調とは言い難い状況だった。が、そんなことは、この男には関係ない。
『本気なの』
 銀生は訊いた。
『むろんです』
 自分は答えた。
 ああ。本気だとも。証明だと? ふざけるな。証しなど必要ない。そんなこともわからないのか。
 のどの奥で、脈打つものが蠢いた。
 意識するより前に、藍はその口呪を唱えていた。音にならないそれは、潮が引くように自身から離れて……。
 反結界。相手の術をいったん封印してそのまま返す、結界術の奥義である。銀生の破砕術は反結界に取り込まれた。
 ガァァァァァーーーーン………
 中庭の飾柱が崩れる。地鳴りのような震動のあと、藍は信じられない光景を見た。破砕の術を発した当人が、その術のエネルギーを片手で受けとめている。
「あ……」
「やっちゃいましたねえ」
 銀生は言った。声だけはいつものように、のんびりとしている。が、その双眸は、蒼く冷たい光を宿していた。
 氷のような蒼。はじめて見る、この男の「昏」の姿だった。
 バチバチと音をたてている右手がこちらに向けられる。反結界で弾き返した破砕術が、再び発されようとしたとき。
「あれえ、藍にーちゃんっ」
 邪気のかけらもない明るい声が響いた。瞬時に、銀生は術を抑え込んだ。
「なにやってんの、こんなとこで……って、なんか、すごくない?」
 藍の義弟である碧が、クレーター状になった中庭を見遣って言った。うしろには、黒髪黒眼の昏一族の末裔。
「あー、おかえり。ご苦労だったね〜」
 銀生は、服についた埃をぱたぱたと払った。瞳の色は常の状態に戻っている。
「……何事だ。これは」
 ぼそりと問うたのは、昏だった。。
「いやあ、じつは、やーっと俺の『水鏡』が決まったのよ」
 銀生が喜色満面でそう言った。
「で、実戦形式で自主練やってたんだけど、調子に乗りすぎちゃってさー」
「水鏡って……もしかして、藍にーちゃん?」
 ただでさえ大きな目をひときわ見開いて、碧。
「そ。これで俺も、ながーい独身生活にピリオドが打てるよ〜」
 うんうんと頷き、銀生は藍に手を伸ばした。つい先刻、この身に破砕術を繰り出した手を。
「いつまで、そんなとこに埋もれてるんです? さっさと上がってきてくださいよ」
「……」
 藍は銀生の手を無視して、ひょいと飛び上がった。
「あーらら、せっかく手伝ってあげようと思ったのに」
「けっこうです」
 言下に断った。だれがこの男の助けなど。
「んもう〜、冷たいんだから。一夜をともにした仲じゃありませんか」
 銀生の言葉に、碧は目をまん丸にし、昏は無表情なまま横を向いた。
「ふっ……ふざけないでくださいっ!」
 藍は叫んだ。いま、この場でそんなことを言う必要はないだろう。だいたい、あのときは実際の行為はなかったわけだし。
「とにかく、俺たちは着替えてくるから」
 藍の抗議をまるっきり無視して、銀生は続けた。
「おまえら、日誌書いたらもう帰っていいよ〜」
 ぴらぴらと新人たちに手を振る。
『じゃ、行きましょうか』
 ひそり、と遠話で囁かれた。
『見せてくださいよ。もうひとつの“本気”を』
 肩が抱かれる。藍は唇を結んで、それに従った。