異端   by(宰相 連改め)みなひ




ACT3

 終業を告げる鐘が鳴る。
「これで歴史学の授業を終わります。誰か、この資料を歴史資料室に運んで。昏くん、頼みます」
 歴史学の教師、漆原夏芽が指名した。俺は目を見開く。
「起立、礼!」
 終業の礼が終わり、学生たちが帰り支度をする。俺は言われたことを果たす為、教卓の前へと進み出た。
「運びます」
「お願いします。私も歴史資料室に戻りますから、一緒に行きましょう」
 漆原は数冊の教科書を持ち、椅子から立ち上がった。ゆっくりと歩きだす。
「もう、桜も終わりですねぇ」
 日の差しこむ廊下を歩きながら、歴史学の教師が言った。漆原はかなりの高齢だ。遥と同じくらいかも知れない。ゆっくりとした足取り。俺も合わせて歩いた。足元に、窓から入ってきた桜の花びらが落ちる。
「入学して一月、学び舎には慣れましたか?」
 眦に皺を寄せ、漆原は訊いた。俺はその優しい眼差しに、しばし戸惑ってしまう。そんな目で俺を見た人は、遥と藤食堂のおかみしかいない。
「・・・・少しは」
「それは、よかった」
 やっとのことで出した声に、漆原は穏やかに笑った。畏怖や侮蔑のない心。少し、胸の奥が温かくなる。  
「いろいろあると思いますが、がんばってください」
「はい」
 染み入るような声。素直に頷けた。歴史資料室が近づいてくる。戸を開けて。
「それはそこでいいです。昏くん、ありがとう」
 教科書を机に置いて、漆原は言った。俺は礼をし、その場を去ろうとする。
「あ、待ってください」
 呼び止められて動きを止めた。漆原が何やら机を探っている。
「この間の授業で、テストの範囲を発表したんです。君はたしか、休んでいましたね。今、範囲を・・・」
 ガサガサと本の山が動いて、バサバサと本が落ちた。俺は近寄り、落ちた本を拾う。
「ああ、すみません。すぐメモを出しますね。結構多いので、紙に書いて・・・」
「いいです」
 申し訳なくて言った。範囲ならば表層意識を読めばいい。別に書かなくても。その時。
「視てはだめです」
 さりげなく言われた。俺は驚く。この人は俺が視ようとしたことに、気づいた。 
「きみが人の中で生きてゆくのならば、必要な時だけにした方がいい」
 皺の奥の黒眼が、ひたと俺を見つめる。俺は声が出せなかった。この人は、術者なのか?
「なんとなく、感覚でわかるんです。遮蔽することはできませんが。これも『経験』でしょうかね」
 苦笑しながら漆原が言った。喉元まで疑問がせりあがる。あなたは、「昏」を知っているのですか?
「手を出してください」
 言われるままに右手を出した。くすぐったい。漆原が手の甲に何やら書きつけている。
「メモが見つかりませんでした。でも、これで忘れないでしょう?」
 言われて手の甲を見る。そこには、テスト範囲が記されていた。
「掌だと汗で消えてしまうんですよ。何かに書き写すまでは、手を洗わないでくださいね」
 微笑んで漆原が送り出す。俺は手の甲に書かれた文字を見つめながら、歴史資料室を出た。
 学問一筋と言う感じがしたのだが、意外に経験豊富なのかもしれない。
 長い廊下を歩きながら思った。彼は歴史研究者だ。「昏」のことも、何か知っているかもしれない。
 そのうち、機会があれば訊いてもいいか。
 手の甲に書かれた文字が、そんな気分にさせた。やさしくてきれいに整った文字。彼の人柄を表しているような。
 遥の字も、美しかったな。
 かつての養育者を思いだした。符術が専門だと言っていた遥は、流れるような文字を書いた。緻密で幾何学模様のような文字も。どちらも真似してみたが、遠く及ばなかった。
「見つけたぞ」
 感傷に浸る俺を、聞き覚えのある声が引き止めた。この声は、まさか。
「今日は逃がさない。勝負だ」
 思った通り、春日是清が立ちはだかっていた。俺は溜め息をつく。
「何が楽しい」
「何を!楽しんでなどいないっ!俺は貴様と決着をつけたいだけだ」
「どうして、それが必要なのだ」
「当たり前ではないか!由緒正しい春日家と、絶滅したとはいえ貴様の昏一族!どちらが優秀か、今こそ優劣をつけるのだ!」
 びしりと宣言された。まわりの取り巻きたちは既に退いている。俺はひたすら、逃げたくなった。
 窓から行くか。
 答えは瞬時に出た。たんと廊下を蹴り、窓枠に乗る。
「こらっ、貴様!どこ行くー!」
 是清が喚いた。俺はそれをまる無視して、窓に近い桜の木に飛び移った。枝づたいに外に出る。途中で教科書を忘れたことに気づいたが、とって返すよりはと諦めた。森へと帰る。
 弁当箱を置いてきたことだけおかみに謝らねばと思いながら、俺は藤食堂へと向かった。