今、ここに在ること by (宰相 連改め)みなひ ACT21 碧。 お前は何を求めている。 命が欲しいというのなら、すぐに手渡してやるのに。 闇の中一人、ため息をつく。隣のあいつを見つめて。ぐっすりと眠るその顔は、ひどく幼く見えた。 薄く血管の浮いた瞼。金色の睫。白く柔らかい頬。 それらは何も語らない。その下にある薄紅の唇でさえも、今は微かな寝息を漏らすだけ。 あれから半月になる。俺達はもう何度か身体を交えていた。そして。 今夜も碧は、俺に抱かれるだけだった。 日を追うごとに、思考の出口は遠ざかっていった。 あいつは仕掛けてこない。何が目的なのだろうと思う。始めは閨の隙を見て、俺の命を奪うのだと思っていた。その次は何度か仕掛けずに安心させ、油断したところを襲うのだと。けれど今、その考えを信じるには、俺達は身体を繋ぎ過ぎていた。 「じゃ、しよっか」 碧はそう言って俺を誘う。大抵は休みの日や訓練が午後から始まる日の前夜。始めに俺を誘った時と、同じ目と顔をして。俺もその都度応じてきた。もちろん、今度こそ何かがあると信じて。だけど。 結局これまでの間、あいつに挙動不審な言動は見られなかった。閨も。訓練も。生活においても。 あいつは日々やりたいように過ごし、機嫌よく課題をこなしている。男に抱かれているという、本来特殊な状況にあるはずなのに、とことん碧はマイペースだ。たくましいとさえ思えるほど。 それに対して、俺は日々疲弊してゆくのがわかった。命を狙われているからではない。それくらいのことは、今まで数え切れない程経験していた。かといって死にたいわけではないし、死ねないのだが。 残念ながら、俺の未来は明るいとは言えない。それが来なくなったとしても、俺にはさほど悪いこととは思えない。俺を狙うのが碧ならば尚更。むしろ、喜ぶべきことなのかもしれない。 けれど、俺の頭を悩ます問題は、未だ何も起こっていないということだった。 碧は俺に抱かれ続けている。何度もこの腕で達して。何度もこの身を受け入れて。 今では肌も馴染みはじめ、目を閉じればすぐに思いだせるくらいになっている。あいつの息も。声も。喘ぎも。 明らかに身体が心より先行していた。既に共有する時も、快楽の要素を孕んでいる。引き返せないところに差しかかっていた。 「おまえさ、なんでいつも迷うの?やりたいならやりゃあいいじゃん」 行為を迷う俺に、碧はそう言う。けれど俺は迷わずにいられない。欲しいから求める。好きだから抱く。それでいいのかと疑ってしまう。本当は、欲しがられていないかもしれないのにと。 視れば全てがわかる。 それは経験上、よくわかっていた。「昏」の力で深層心理を読み取る。心に一物あれば、すぐに見抜ける。身体を任せる本心も覗けるだろう。だが、それだけはもう、したくなかった。 「ほら、しようぜ」 碧は畳み掛けるように言う。その積極性が曲者だ。裏があるのかただ単に短気なのか。それでも誤解しそうになる。 欲しがられているわけではない。 何度も自分に言い聞かせている。あいつは目的があるのだ。だから、俺に見せているあの顔も声も、碧が俺を求めて生まれたものではない。真に受け入れられているわけではないのだと。だけど。 たった一つ、ずっと求めてきたものを、腕の中から放り出すことは出来なかった。たとえ刹那でも。偽物でも。身体だけでも。俺は碧が欲しい。 最低だな。 あいつを抱く度に、自分で自分を嘲笑った。殺されるかも知れない。ただの術だとわかっている。碧の心は、ここにはない。 全部把握していて尚、身体だけでも碧を欲しがる自分。碧の術中に嵌まっているようで、じつは自分の欲しいものを、貪欲に貪っている自分。反吐が出た。 「昏ちゃん、調子悪いのかい?」 気がつけば藤食堂のおかみが覗きこんでいた。心配そうな顔。首を振り、なんとか笑顔を絞り出す。 「いや。少しぼんやりしていた」 「そうかい。なら、いいんだど。もともと食が細かったけど、最近更に細くなってる気がするよ」 「気の所為だ。なんでもない」 言いながら目の前の食事を胃に詰め込んだ。つい先日までうまいと感じられていた料理の数々は、今は味を感じない。飲み込んだしりから湧き起こる、拒絶反応のような吐き気。 まずいな。またか。 拒食症状が出ていた。別に珍しいことではない。生まれつき食に欲求のないほうだったし、今まで何度か同じ症状を経験していた。今回もなんとなく気付いてはいたのだが、碧を初めて抱いた日から、少しずつものが食べられなくなっていた。 「顔色がよくないねぇ。昏ちゃん、いつぞやみたいなのは嫌だよ。しっかり食べなきゃ」 おかみと出会って間もない頃のことを言っているのだと思う。あの時も水さえ受けつけられなくなり、御影研究所へ強制的に送られた。店で倒れてしまったため、おかみにひどく心配させてしまった。 「わかっている」 感じない空腹。常に感じる吐き気。本当は何も食べない方が楽なのだが、おかみの料理を残すわけにはいかないので、必要最低限だけを食べる。それでも、最近は吐いてしまうことが多くなっていた。 「明日の朝もきっとおいでよ。何か、消化のいいもん作っとくから」 諭すような言葉に背中を押され、俺は家路へと急いだ。碧がなにやら話している。術の話らしい。気の同調率はほぼ完璧な域まで達した。あとは不完全な結界術を、もっと確実なものにするだけ。 案外自分の言ってるとおり、「『水鏡』になる」だけかもしれないな。 うまくまとまらない頭で、ぼんやりとそう思った。馬鹿なとすぐに打ち消す。「水鏡」になるという目的だけで、「昏」に関わる奴がいるもんか。頭の中を覗かれ、身体まで好きにされて。 何か目的があるのだろうが、今の俺にはわからない。残念ながら、見当もつかない。 「どうせ知りたくないんでしょ。ほんと、”豚に真珠”だねぇ」 銀生の声が聞こえた。的を得た言葉に苦笑する。そうだ。俺は知りたくない。碧の本意が怖いだけだ。見通す「昏」の力があるにも関わらず、怖れで瞼を閉じているだけ。 知らなくてもいいと思いはじめていた。知らないままに、命を失っていいとも。 死ぬことよりも、あいつが去ってゆくのが怖かった。 「明日、午後から訓練だよな?」 家の戸をがらがらと開けながら、碧がぼそりと訊いた。俺は小さく頷く。 「じゃ、やろっか」 空色の目がきろりと向けられた。透き通るその奥に、潜むものは見えない。 「なに?」 小首を僅かに傾げて、碧は俺を見た。俺はやはり戸惑う。目的があることは知ってる。それでも、求めてしまいたい。求めていいのだろうかと。 「黙ってないでさー。返事しろよ。どうすんの?」 苛立ちはじめた碧に、俺は胃の痛みを抑えながら「そうだな」と、頷いた。 |