今、ここに在ること  by (宰相 連改め)みなひ




ACT19

 一瞬、耳を疑った。
 碧の言いだすことは、全く予想がつかない。


「どういうことだ」
 その言葉を聞いた時、聞き返さずにはいられなかった。言ってることの意味はわかる。だがなぜ、お前がそんなことを言い出だすのか。それがわからなかった。
「どういうことって、言ったとおりだよ。メシも食ったし風呂も入った。明日訓練はない。だから、やろうぜって言ったの」
 まっすぐな瞳。怖れも嫌悪もない顔。碧はまるで、そうすることが当たり前のように告げた。告げられた俺は必死で考える。あいつがこんなことを言い出し得る、あらゆる可能性を。
「なんだよ、すっげぇしかめっ面。なんか文句あんの?」
 眉間にくっきり皺を寄せ、碧が顔を近づけてきた。どうやら機嫌を損ねたらしい。しかし、納得できるだけの材料がなかった。もちろん、考えなしで応じる気もない。 
「自分が言ったことの意味は、わかっているのか?」
「わかってるから言ってんじゃん。おまえに抱かれてやるって言ってるの」
 あっさりと何でもないことのように碧は返した。出来れば違う内容だと思いたい。そんな俺の願いは、見事に打ち消されてしまった。
 沈黙が流れる。様々な状況をシミュレートした。けれど、納得できる答えは見つからない。
「・・・・・どうしてなんだ」 
 自然と言葉が口から漏れた。十日前、碧はひどいめに合わされたはずだ。頭の中を覗かれ、抵抗を封じられ、無理矢理俺を受け入れさせられて。だのに、その行為をまた、あいつは望むというのか。
「どうしてって、こっちがどうしてだよ。おれがいいって言ってるんだぞ?」
 口を尖らせながら、あいつが言った。不機嫌いっぱいの顔。 
「よくはない。どう考えてもあの行為は、お前が歓迎するものだとは思えない。負担が大きすぎる」
「なら、どうしてあんなことしたんだよ」
 ぴしりと訊かれた。意表をつかれ、俺は言葉に詰まる。今度はこちらが尋ねられる番だ。
「おまえさ、おれが気に入らないから、嫌がらせしたのか?」
「いや」
「そうだよな。痛めつけるためなら、もっと容赦ないはずだ。じゃあ、なぜだよ」
 僅かに首を傾げて、碧が訊く。逸らされることのない視線。胸を射貫いた。

 何故。
 理由が求められている。
 俺が、あいつを抱いたことへの。
 
「もいっこ訊くけど。おまえ、誰でもよかったのか?」
「馬鹿な。銀生と一緒にするな」
「んじゃ、おれでないといけなかったんだ」

 碧を抱いた理由。
 それは・・・・・。

「あーっ、もーっ、じれったいなー!」
 待ちきれないとあげられた声。戸惑う俺に碧が切れた。言葉の瓦礫を放り投げる。
「理由なんかどうでもいいや。早くしようぜ!」

 嫌に遠く聞こえた。
 どうでもいい、だと? 
 切望してやまなかったお前を、堪え切れずに求めたことを、そう言い捨てるのか? 

「もういいじゃん。さっさと済ましたいんだよ!」

 済ませる、だと?
 お前にとってあの経験は、その程度のことなのか?

「やっちゃわないとさ、おれ、困るんだよ!」

 困る、だと?
 どうしてお前が困るんだ。困る理由が見つからない。

「なあっ!」
 がしりと肩を掴まれた。逃げられなかったことに自嘲する。それほど俺は動転していたのか。
「おいっ!」
 不意に碧の顔が近づいた。攻撃が来ると覚悟する。その時。 
「・・・っ!」
 何かが唇に押しつけられた。温かくて、ひどく柔らかく感じられるもの。思考が乱れてゆく。それが何かを理解するまでに、かなりの時間を要した。
 今、俺の口を塞いでいるもの。それは、あいつの唇。
「いいだろ」
 しばらくして、顔を離した碧が言った。上目遣いの眼差し。淡く色づいた唇が、うっすらと濡れている。
「な?」
 せがむように訊かれた。甘い声音。鼓膜を通して脳へ。心の奥底にいる、切望する俺のもとへ。
「昏」
 その時気付いた。たった一つだけある、碧が閨に入るかも知れない可能性を。

 そうか。
 閨で油断を誘うのかも知れない。
 そんな手法は到底、碧には使えないと思っていたのだが。

「わかった」
 うっすらと微笑み、俺はあいつに応じた。碧がホッとしたような顔をする。疑いは確信に変わった。

 いいだろう。
 油断を狙っているのならば、それに乗るのも一興だ。
 お前の手並みを拝見させてもらおう。

「手加減はしないぞ」
 肩を押しながら宣言した。碧の身体がゆっくりと倒れてゆく。畳へと沈んだ。
「いいけど、痛いのはごめんだからな」
 畳に押しつけられた姿勢で、あいつが返事を返す。ふてくされた表情。「昏」の力については、何も言わない。条件は「痛み」だけ。
「了解した」
 俺は短く答えて、白い首筋に口づけた。



 命を狙われているかもしれないとわかっていたが、不思議と怖れはなかった。
 碧が俺を殺そうと思う。それは至極当然なことに思えたし、それでもいいと思った。銀生が止めに来るかもしれないが、妨害すれば一太刀くらいは浴びれるかもしれない。
 どうせ俺は死ぬことも狂うこともできずに、疲弊しながら生かされていくのだ。銀生や和の国や失われた「昏」達に。多くのものを詰め込まれているのに、入れ物は壊れることを許されない。だから、想いも感情も全て押し殺し、感じ取ってしまう心を麻痺させて生きるしかなかった。これからどれだけ生きるのかは知らない。でも。
 俺にとって、死ねるまでの時間はあまりに長すぎた。

 碧が望んでくれた命だ。
 碧なら絶ってくれてもいい。

 本気でそう思っていた。いつ仕掛けてくるだろう。一つ一つ、碧の様子を観察し続けた。まだなのか。もっと油断しなければならないのか。もっと溺れて見せなければいけないのかと。だが、しかし。
 全てが終ったその後も、碧は仕掛けて来なかった。深く眠る横顔には、殺気の欠け片もない。まさに熟睡していた。
 何が目的だったのだ。
 あいつが今夜したことは、普通に俺を感じただけだ。他には何もない。確かに手加減はしなかった。でも余裕を与えず責めたてたわけではない。十分な反撃の時間も与えたはずだ。だのに、何故。
 規則正しい寝息を聞きながら、俺は混乱し続けた。