本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜  
by近衛 遼




ACT9 銀生、尻を叩かれる

 藍が莫の国から連れ帰った夏氏の王族の名は豊甜(ほうてん)といい、先代の王の十六番目の子で、現王の異母弟にあたる。
 もっとも、豊甜の言が事実であるとすれば、異母兄である夏氏王はすでにこの世にはいない。王だけでなく、城にいた王族のほとんどは、莫の国に拉致されることをよしとせず、自害したのである。
 王は、民が求めるとき以外は国を出てはならない。城の中にある神殿で、ひたすら平安を祈る。それが夏氏の王家に生まれた者のつとめであった。
 豊甜のほかにも何人かが自決ならずに莫の兵に捕えられ、別々の場所に監禁されたらしいが、ほかの者たちの消息はいまだ不明だった。


 藍が豊甜を説得するために、鬼塚とともに出かけていって、約二時間。まもなく昼刻である。
「うーん。おかしいなー。たいていの鍵はこれで開くはずなのに……」
 社銀生は眉間にしわを寄せて、呻いた。
「ごちゃごちゃいじってて、かえって鍵、壊したんじゃねえの?」
 銀生の手元を覗き込んで、碧がため息をつく。ふたりは機密書類(と「一文字屋」のせんべいとインスタントラーメン)の入った特殊ケースの前で、もう一時間ちかく顔を突き合わせていた。
「そんなことないよ。引っかからずに回ってるから、もう外れてると思うんだけど」
「じゃ、なんで開かないの」
「さあてねー。こりゃもしかして……」
 工具を置いて、印を組む。指先から「気」が発した。
「ふーん。やっぱりね」
「なになに?」
 碧が乗り出してくる。危うく額がぶつかりそうになった。
「ちょっとー。危ないでしょ」
「あ、ゴメン。で、なんだって?」
「封印だよ。鍵だけじゃなくて、ご丁寧に二重に印を封じてある」
「ええええーーーっ。じゃあ、今日はラーメン、食えねえの?」
「情けない声、出すなって。おまえはまだいいでしょーが。商店街に行って新しいの買ってくればいいんだから。でも、俺は望みナシなのよ。なにしろ、今日は定休日だもんねえ」
 万事休す。お手上げ状態だ。
 まいったねえ。まさかここまでやるとは。あの人の怒る顔がみたくて、わざとバリバリ音をたてたりこぼしたりしてたのがバレたかな。今度から気をつけなくては。
「仕方ねえなー。じゃ、おれ、買いに行ってくる」
「碧」
 それまで黙々と書類を片づけていた昏が、一時間ぶりぐらいで口を開いた。
「え、なんだよ、昏。昏もラーメン、食べるか? こないだ銀生さんが買ってきてた『麺の王様』の生麺シリーズ、うまかったぜ」
「……今朝予約しておいた弁当はどうする」
「あっ、そーだっけ。すっかり忘れてた」
 碧はぺろりと舌を出した。
「藤おばちゃんの弁当はサイコーだもんな。よーし、ラーメンはあしたにしようっと」
「昼飯に、か?」
「いいじゃん、たまには。おまえのはしょうゆ味にしとくからさー」
「……」
 あらら、可哀想に。でも碧の言うことなら、たいていのことはきいてしまうんだよな。まったく、惚れた弱みってやつで。
 銀生が部下たちの心情を推し量っていたとき。
「あ、藍にーちゃん。おっかえり〜」
 碧がにっかりと笑って手を振った。昏はふたたびデスクに視線を落とし、書類の整理にとりかかった。いまさらながら、なんとも切り替えが早い。
 銀生もすばやく工具入れをデスクの下に隠し、特殊ケースをロッカーの奥へと押し込んだ。
「ご苦労さまです、藍さん。お客さんの機嫌は……」
「あなたは、いったいなにをしたんです!」
 なんの前置きもなく、藍は言った。かなり怒っている。どうしたのだろう。日頃、「扉の開閉は静かに」と生活指導をしているような人が、いまは思いっきり乱暴にドアを扱っていた。これはかなり「来て」いる証拠だ。
「ええと、なにと言われても……」
 とりあえず、考えてみる。夏氏の関係だとは思うが、「どれ」だろう。藍が莫の国に行っていたあいだ、銀生は周辺諸国との折衝(もしくは脅迫)に飛び回っていたのだが。
「とぼけないでください。天央をつついたでしょう!」
 ああ、あれか。
 天央というのは、槐の国の山岳地帯にある砦のことだ。南北に続く天峰連山のちょうど中ほどにあるので、その名がついた。現在その砦は、「六家」と称される槐の名家のひとつ、黎家の当主が差配している。
「つついただなんて……俺はただ天央のみなさんに、ちょっと目をつむっててくれって頼んだだけですよ〜」
「頼んだ?」
 黒い瞳がうっすらと細められた。
「それを聞いて、『はい、そうですか』と目を閉じるような愚か者が『六家』にいるものですか」
「あれれ。もしかして、動いちゃいました?」
「ええ。しっかり、喉元に食らいついてきましたよ」
 いくらか落ち着いたのだろうか。口調がゆっくりになってきた。もっとも、これはこれで、またべつの意味で恐いのだが。
「責任は、とっていただきますよ」
「責任と言われても……『冠』の意向はどうなんです」
「いましばらくは『客人』を接待するようですが、万一の場合は手放すと」
「へーえ。見限るってこと? できるかねえ、あのおやじさんに」
 冠は義を重んじる男である。今回は少々荒っぽい手段に訴えたが、それでも一旦は懐に入れた者を一方的な理由で切り捨てるとは思えない。
「見限るとは言ってません」
「だったら……」
「槐の国に譲るつもりみたいですね」
「はあ?」
「まったく、あなたが余計なことをするから、槐の国が西にまで興味を持ってしまったんです。このごろあちらは、江の国や涼の国との関係が上々ですからね。余力があるところに、わざわざエサをちらつかせに行かなくてもよさそうなものなのに」
 念のためにと思ってやったことが、仇になったというわけか。
 槐の国はかつて宗の国の属国であったが、六十年ばかり前に宗の支配を脱した。いまでは東原五州と呼ばれる台、莫、和、宗、彗の五大国に引けをとらぬほどの力を持っている。
 近年、南方貿易の利権を獲得した槐の国のこと。次は莫の国までの陸上ルートを確保できれば、西方外交に有利と考えたのかもしれない。
「うーん。で、俺はなにをしたらいいんですか?」
 これではどっちが部下なのかわからないが、こういう場合は下手に逆らわない方がいい。オフィスだけならいいが、自宅に帰ってまで煙草禁止令だのせんべい禁止令だのを発布されてはたまらない。それでなくとも、掃除の仕方や洗濯物の干し方など、こと細かにチェックされているのだ。
『共同生活(藍は意地でも「同棲」とは言わない)をつつがなく送るにあたっては、両者が不快に思わない環境作りが重要なんです!』
 いざひとつ蒲団に……と思っているときに、あんなことを言われてもなー。つらつらと過日のことに思いを馳せていると、
「取り急ぎ、天央へ行っていただきます」
 すっ、と、冠の命令書をデスクに置く。
「『客人』の件はしばらく保留ということで、あちらを納得させてください」
「あんまり、自信がないんですが」
「あなたが蒔いた種でしょう。ちゃんと刈り取ってくださいね」
 冷ややかな微笑みを浮かべ、藍は言った。
「ご武運をお祈りしています」
 定型のあいさつが、このうえなく寒い。
「……行ってきます」
 命令書を手に取り、銀生は特務三課のオフィスをあとにした。