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本日モ荒天ナリ〜御影出張所日記〜 by近衛 遼
ACT10 桐野主任の特務三課改善計画
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
軍務省情報部特務三課のオフィスでは、ここ一週間ばかり、始業時間十五分前にタイムカードを押す音が三つ続けて聞かれるようになった。
「本日の予定を説明する」
特務三課主任、桐野藍の声が響き、今日もつつがなく業務が開始された。
「じゃ、昏」
ことさら元気に、碧が言う。
「今日の弁当は、おれが買いにいくから」
「ああ」
「ちょっと遅れるかもしれないけど……」
「かまわん。お互い様だ。場所を間違えるなよ」
「わかってるって。講堂の裏っかわだろ」
今日もまた、昼休みの打ち合わせをしているらしい。いつまでやってるんだ。藍はちらりと時計を見遣った。
「始業時間だぞ」
「承知」
昏が憮然とした表情で、デスクに着く。碧は名残り惜しそうに、戸口に向かった。
恋人たちの語らいを邪魔するのは無粋なことだとわかっているが、ここは仕事場。けじめはつけてもらわねば。
碧を送り出したあと、藍は各部から回ってきた書類の整理に没頭した。むろん、部下である昏も同じく。
銀生が槐の国に出張してから、碧は冠の私邸に保護されている豊甜の警護、昏は各部との調整や事務処理という具合に、完全に職務が分かれていた。そのシフトを組んだのは、当然ながら藍である。
アバウトな上司がいないあいだに、少しは職場を引き締めておかねば。
そのため、藍はまず、碧と昏に別々の仕事を与えることにしたのだ。
「昏」
昼間近。藍は右側に仕分けした書類の束を指差して、言った。
「書式に不備がある。やり直せ」
「不備? いったい、どこが……」
「自分で考えろ」
「……」
もぎ取るようにして、書類を奪う。
どれも些細なミスだった。が、ミスはミス。完璧に仕上げてからでなければ、受理はできない。
カリカリカリカリカリカリ……………。
明るいオフィスの中に、ボールペンの音だけが流れる。本来なら昼休みの時間帯もそれは続いた。
「桐野主任」
昏がボールペンを置いた。書き直した書類を持って、藍の前に立つ。
「これで、よろしいでしょうか」
苦虫を噛み潰したような顔。藍は書類を確認し、それらを処理済みのケースに納めた。
「よし。休憩していいぞ。ただし、二十分だ」
午後からは、総務部との打ち合わせが入っている。時間をずらすわけにはいかない。
昏はきっちりと一礼して、足早にオフィスを出ていった。きっと、碧との待ち合わせ場所に行くのだろう。
夕刻には同じ家に戻れるというのに、寸暇を惜しんで会うこともないだろうに。藍はデスクの引き出しから、簡易栄養食を取り出した。銀生がいないときの食事は、もっぱらこれだ。鬼塚や錦織に誘われて外食することはあったが、自分のためだけになにかを作る気にはならない。
ざらざらとした食感。味などほとんど感じない。が、とりあえず必要な栄養は摂取できる。
一食分を食べ終えて、藍はふたたび仕事に戻った。
そんな日々が、その後もしばらく続いた。
銀生からの連絡はない。まさかとは思うが、天央との折衝がうまくいっていないのだろうか。
たしかに銀生は西方や北方の任務が多いが、こと槐の国に関しては藍と同じぐらい、いや、それ以上の経験があった。情報部の秘密兵器として、十代前半から現場に出ていた銀生である。「六家」の者と関わったのも、今回がはじめてではない。それゆえ、いま一度銀生が天央に出向けば、なんとかこちらに有利に事が運べると思ったのだが、いかんせん、読みが甘かったかもしれない。
「藍にーちゃん。ただいまっ」
大声とともに、ばたん、と扉が開いた。とりあえず、思考を中断する。
おかしいな。まだ終業時間ではないはずだが。時計を確認した。やはり、一時間ちかく早い。
「どうしたんだ、碧。なにかあったのか?」
豊甜の身辺に異状でも起こったのだろうか。それにしては、碧の表情は明るいが。
「うんっ。銀生さんが帰ってきたんだよ」
「え……」
藍は目を見開いた。銀生がすでに都に戻っていたとは。
まったく気付かなかった。いつもなら、あの男が帰還する前には、なにかしらの兆しを感じるのだが。
どうしたのだろう。まさか、「気」を感じることもできないほど弱っているとか……いや、それなら、碧がこんなに元気なはずはない。気配を消さねばならない事情でもあったのか。一瞬のうちに、そんなことを考える。
「それで、銀生さんは……」
「はーいっ、ここですよー」
ひょい、と、銀生が扉の陰から顔を出した。
一緒に帰ってきたなら、さっさと入ってこい!……と思ったことは、とりあえず脇に置く。
ここまで来ていながら、完璧に気配を消すとはどういうつもりだ。「一文字屋」のせんべいを取り上げたことを、まだ根に持っているのだろうか。
「ただいま戻りました〜」
いつも通りの、のほほんとした声。
「……ご無事でなによりです」
定型のあいさつを返し、一礼する。
「で、天央の件は」
「やーっと、妥協してもらえましたよ。いや、大変でした」
もとはと言えば、自分のせいだろうが。……と思ったことも、口には出さなかった。まずは今回の成果を確認することが肝要だ。
「妥協といいますと?」
「例のお客さんの処遇がはっきりするまで、天央から一人、ウチに出向してくることになりまして」
「要するに、われわれの出方を監視するということですか」
「監視だなんて、大袈裟な」
「どんな言い方をしても、事実は変わらないでしょう」
「事実はおんなじでも、印象が変わるでしょ。藍さん、いつもそう言ってるじゃないですか。『丸い卵も切りようで四角、ものも言いようで角が立つ』って」
たしかに、時と場合に応じた物言いをするよう、部下たちには(ときには上司にも)指導しているが。
「それで、赴任はいつです」
他国から駐在員を受け入れるとなると、それなりに準備が必要だ。
「今日です」
さらりと、銀生が言った。
「は?」
「だーかーらー。今日ですってば」
「今日というと……本日、ですか」
われながら、間の抜けたことを言っている。
「はい。なんたって、善は急げって言いますもんねー」
「どこが『善』ですか! そういう重大なことは、事前に相談していただかなくては困りますっ」
「えー、でも、もう上の許可も取りましたし……」
「あなたって人は、いつもいつも事後報告ばかりで。あとで書類を整えるのに、どれだけ手間がかかるか……」
「見苦しいな」
抑揚のない硬質の声。藍は戸口を見遣った。
「上官の決定に従うのが、部下の本分であろうに」
暗い鈍色の髪。一重の闇色の瞳。やたらと重々しい「気」をまとった痩身の男が、そこに立っていた。
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